『考えないヒト』

 「廃用性萎縮」という言葉を、以前取上げました。「使わないでいると身体は
痩せ衰える」という意味です。一番、分かりやすい例として、車の普及によっ
て、人間は歩かなくなった。100m先の煙草屋にタバコを買うにも車で行く。だか
ら、昔の人に比べ、足が弱くなっているし、運動不足から、生活習慣病の人も多く
なった。
 近年のコンピュータの発達は目覚しいものがありますが、コンピュータは、ある意
味で、人間の頭脳を代替するものですから、コンピュータを使い過ぎると、頭脳が衰
えてくるということは、ないでしょうか。
 そう思っていたら、「IT技術の普及で人間が退化する」と言う論者が現れました。

 正高信男さんです。『ケイタイを持ったサル』、『考えないヒト』なる著書で、
「サルからヒトに進化してきた人類は、ケイタイに見られるようなIT技術の進展普
及で、今度はサルに退化しつつあるのでは?」
と問題提起しています。以下、『考えないヒト』(中公新書)の読後感です。

 コンピュータを頭脳の外部記憶として使うことが出来る。そうすることで私たち
は、日常の煩わしさから解放される。わずらわしさから解放されると、その分、有意
義に毎日を過ごせると無意識の内に信じているふしがあると思う。
 しかし、人間の頭脳の基本的な働きは、経験したことを記憶することです。
 その記憶した経験を組み合わせることで、新しい発想が生まれるのだと、私は思
います。だから、経験を記憶すると言う機能を使わないと、その機能を担う部分が廃
用性萎縮を起こす危険性があると思うのです。
 【すべてのやっかいと感ずる知的作業を、肌身離さず持つ小さな電子機器に委ねる
・・・実は私たちは、わずらわしい日常に埋もれているからこそ、人間性をまとって
いられるのかもしれない】(『考えないヒト』)
 正高先生の主張を簡略化すると、【人間はことばを使うことで、人間になった。そ
の、ことばはどうして覚えることが出来るのか?生まれた後の対人接触の積み重ねの
中で、相手の発する音声から、ことばを憶えることが出来るのです。
 更に、私たちが「自分」としてとらえている認識も、本当は周囲からの働きかけに
よって出来上がるのだ。だから、個性が出来上がる過程において、充分な対人接触
を欠くと、健全な個性が出来上がらない。
 少子化の影響もあって、自分はどう見られているかのフィードバックを、今の世代は
得られにくくなっている。
 現在のIT技術は、更に生の対人接触を少なくし、情報も視覚情報に偏ることか
ら、音声に接する機会を少なくしている。】
 
 そうした問題はあるかもしれませんが、運動不足になるからと言って車の使用を止めない
と同様に、コンピュータの使用を止めることは出来ないでしょう。
 車が人の行動範囲を広げたように、コンピュータは知的活動の範囲を大幅に広げるからです。