あの戦争とは何だったか?(3)

6.牟田口司令官
 【(昭和63年)インパール作戦で辛うじて生き残った兵士に取材を試みたことがある。・・私がひとたび牟田口の名を口にするや、身体を震わせて「あんな軍人が畳みの上で死んだことは許されない」とあしざまに罵ることでも共通していた。
 牟田口が作戦失敗の責任を問われなかった理由の一つは、東条と親しい関係にあったからである。】
 こういうケースは、今日、道路公団にもカネボーにも、ふんだんにあるのでは?
【そうした組織の”体質”は、今を顧みても、実は、そう変わらないのかもしれない。
 昨今のNHKの、海老沢元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武グループの総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組織構造と同じに見えてしまう。・・】
7. 8月15日が終戦の日ということになっている。しかし・・・
 【ソ連軍は8月15日以降も、国家の意思として攻撃の手を緩めなかった。樺太、千島列島に侵攻を続けていたのである。
 8月18日、激しい砲撃の末、千島列島北端の占守島幌延島に侵攻、28日には択捉島、9月4日には歯舞色丹を占領している。これはいったいどういうことか。ソ連のある外交官に質した・・「我々ソ連は、日本が降伏文書に署名したその日(9月2日)が戦争の終りで、それまで戦争状態だった」
 世界の教科書でも、みな第二次世界大戦が終了したのは、9月2日と書かれている。8月15日が「終戦記念日」と言っているのは、日本だけなのだ。】
 つまり、日本は負ける時の国際法を何も研究していなかった。兵士にも「虜囚の辱め」を受けるな!と教えても、捕虜の取り扱いに関する国際法を何も教えてなかった。
8.私見ですが、まとめ
 要するに、リーダーとすべきでない人をリーダーにしてしまったのが、太平洋戦争での日本の悲劇であった。日本のシステムの欠陥は、優れたリーダーを選出できないことだ。
 陸軍大学や海軍大学の恩賜の軍刀組は、所詮、学校秀才にすぎない。学校秀才も一つの才能だから、学校秀才なりに使い道はあるのだが、問題は、学校秀才のみで固めたこと。才能を磨くためには、多様な才能を集めた集団の中で、切磋琢磨することである。もっとも、軍だけでなく、当時政界にも人を得られなかったのだから、日本人の集団は優れた指導者を選ぶことが不得手なのかもしれない。
【・・戦争の以前と以後で、日本人の本質は何も変わっていない。】

 関連して言うと、私は、憲法9条の改定に反対である。「他国に攻められた時、自分の国を守れない国が”ふつうの国”であろうか!」という論があるが、他国に攻められる危険の確率よりも、愚かな指導者によって、国民が戦争に巻き込まれ塗炭の苦しみを負う危険の確率の方が、はるかに高い!と思うからだ。実際、90年以降の日本の首相は、昭和11年(2.26)以降20年までの日本の首相より賢いと言えるだろうか。