乃至政彦著『戦国の陣形』

講談社新書、2016年1月刊)を読んだ 。
陣形についての歴史を辿り、川中島、三方が原、関ケ原合戦の虚実を述べた部分が面白い。
川中島合戦は、上杉陣が車輪のようになり、V字型の武田軍を叩いては引く戦法を展開したと言われるが、史料的根拠はない。謙信が「車懸り」を使ったのは有名だが、陣形の名前ではなかったことはあまり知られていない。「車懸り」は部隊の配置でなく、運用を表す戦術の名勝だった
 車輪のように円形を組む「陣形」ではなく、縦人になって進撃を繰り返し、側面から次々と新手をぶつけ。敵勢を拘束したところで旗本が旗本に襲い掛かる独自の「戦術」だった。
 関ケ原の布陣図について
 ドイツのクレメンス・メッケル少佐が、関ケ原合戦の陣形を見て、即座に「西軍の勝ち」といったと伝えられる。それは西軍の布陣が、小高い山々を利して、敵を誘い込んで包囲攻撃しうる態勢にあったからで、典型的な「鶴翼」の陣形であった。しかし。
 メッケル少佐は明治18年から21年まで4年間日本にいた。だが、参謀本部関ケ原合戦図は明治26年が初版。メッケルが見た「陣形」は参謀本部の作ではなかった。明治25年の神谷道一『関ケ原合戦図志』もメッケル帰国後である。メッケルが来日する以前だと、古地図の類しかない。それらの布陣図は、どの部隊が西軍でどの部隊が東軍か見分ける作業が必要で、外国人が瞬時にどちらの勝利と判断するのは不可能である。
 重要な問題を多く指摘する白峰句氏の説によると、小早川秀秋の裏切りは開戦とほぼ同時に発生したのであり、それを両軍が事前に看破していたことは明らか。
 小早川の離反が明らかになったので、西軍は大谷良継が心配になり、大垣城からの後退を決意した。だが西に向かう途上で西軍の内部に乱れが生じた。大谷隊もまた独断で西軍主力と合流すべく陣所を離れ東に向かった。小早川の離反に呼応する三将たちは本隊から離脱して小早川軍と合流を決意する。西軍主力と大谷隊が集うところへ東軍が襲いかかり、小早川および三将も西軍を背後から攻撃した。これですべてが決したのである。中近世の合戦はしっかり陣構えして防御を固めていれば、短期間に決着がつくことは意外に少ないのである。