小泉史観?

 今や昭和史研究の第一人者の観がある保阪正康さんの『「靖国」という悩み』(毎
日新聞07年1月刊)という本を図書館の書棚で見つけて読みました。『サンデイ毎
日』06/07/02から07/10/15までの連載に、『現代』や『世界』に執筆した文章を加
えたものです。
 書名の語るように『靖国問題』を論じたものですが、『小泉史観の大いなる過ち』
(現代06年9月号)という章だけは、お勧めです。
小泉純一郎首相は、歴史的にはどのような評価を受けるだろうか。】
に始まるこの章のさわりを下記します。(【 】内は原文です。)
【写真家で作家の藤原新也氏が、朝日新聞の06年7月17日付紙面で、「エルビス
の亡霊」というタイトルで、次のように論じている。
(今もアメリカの半植民地として位置付けられている一国の長が、アメリカの有名芸
能人の猿真似をして、それを評価する国はどこにもないばかりか、軽蔑されるのは誰
の目にも明らかだ)・・藤原氏小泉首相アメリカ好き、アメリカの物質文化への
憧憬などを分析しているのだが、(こういった極端なアメリカ化現象は、実際に進駐
軍が入ってきた土地固有のものである)・・・
 藤原氏も指摘しているように、実は小泉首相の特異な性格や思考方法、独自の発想
は「アメリカの基地の街出身」の故ではないか・・
 「あのアメリカにあまりにも忠実に追随する姿」や「キャッチフレーズのみを口に
し、その内容を口にしない癖」さらには「思い込んだら一本気に突進する直情さ」な
どを挙げて、これらの特質は、あえて「横須賀史観」と言っていいのではないか、
 「横須賀で育つということは、昭和20年代から日常的にアメリカの軍事力を見て
成長するわけだから、一方では言語など虚しいものと捉え、圧倒的にアメリカという
『力』に屈服するようなタイプが生れるし、逆にそれに反感を持って基地反対を強硬
に主張するものも出てくる」。勿論小泉首相は前者であり、・・・(小泉首相の発想
は)「横須賀史観」と名付けていいと私は思う。】
小泉首相による5年余の政権担当の期間、日本社会はある種、革命的な変化をとげ
た。・・郵政民営化選挙に示されているように「敵か味方か」という二元的な発想が
社会の主要な流れを占め、そのプロセスや内容については問うところではなく、
ひたすら結論だけが求められる。・・・
 社会の隅々に小泉首相流の考え方や問題の捉え方が急速に定着しつつあるかのよう
だ。換言すれば、それは前述したような「横須賀史観」と、「可視部分のみが真実」
という歴史的な見方(可視史観)でもある。現実に存在する巨大な権力を容認し、そ
れに追随するということ、そして現実に目に見えることのみが真実であり、理念や真
実などは問うところではない、という認識がこの社会の中心に据えられつつある。】
 靖国問題から見てみよう。
 【小泉首相歴史観は、一般に語られた見解をもとに考えるといささかの矛盾を含
んでいる。
 靖国に眠っている兵士たちを慰霊することで、過去のあの戦争の愚を犯すまいと誓
うと言う。その一方で、A級戦犯については、「戦争犯罪人だと思う」とも口にする。
戦争犯罪人をも慰霊しながら戦争の愚を犯すまいと誓う。】
 戦争犯罪人を慰霊することと、彼らにより死地に追いやられた無辜の民を慰霊する
ことが両立するのであろうか?前首相の言葉に論理的な説明はない。
 (私見ですが、論理は、言葉を虚しいとする姿勢からは生まれません。)

 ところで、(靖国神社パンフ)によると、
【「明治天皇は7回、大正天皇は2回、昭和天皇は28回、今上天皇は皇太子の折に
5回、ご参拝になられました。」】
 しかし、昭和天皇は昭和50年11月を最後に、靖国に足を運ぶことはなかった。
A級戦犯合祀に対する不快感が原因といわれる。
 【靖国神社はもともと明治天皇によって創建された。・・・天皇が自らのために命
を捨てた臣下の者を祭神として讃え、追悼と慰霊の意を示そうというのである。・・・
この祭神の慰霊に昭和天皇が行かないというのでは、この神社の役割は意味をもた
なくなっていることになる。】
 【靖国神社はこの社会でどのように位置付けをされるべきか、・・・大胆な改革が必
要である。】
 更に、筆者は『千鳥が淵戦没者墓苑』についても、こんな記述をしている。
【休憩室があり、そこにはボタンを押すと・・・説明が自動的に聞けるようになって
いる。
 そこで、この千鳥が淵戦没者墓苑奉仕会の会長である瀬島龍三氏の声が録音されて
いて、その挨拶を聞くことができた。老いた瀬島氏の声が1分間ほど流れた後、そこ
で初めてこの墓苑は「国のために」逝った兵士たちの遺骨が埋葬されていると告げら
れた。・・・
いささか想像を逞しくするなら、ここに眠っている無名戦士たちは「国のため」と
強制されて、つまり大本営作戦参謀たちによって名も知らぬ地に送られ、あえなく
戦死してしまったに違いないのだ。そして今は遺族のもとに帰るでもなくこうして
ここに眠っている。
 無名戦死たちの遺骨は「国のため」に戦ったとして、わたしたち次の世代の者に大
本営の参謀から説明されている。そこにわたしは強い違和感を感じてならなかった。】