日清戦争の原因は何だったか

加藤陽子さん、ネットで彼女の書評を見て、彼女の本を読んでみたくなり、大学図書館で『戦争の日本近現代史』(02年3月刊、講談社現代新書)を見つけました。「征韓論から太平洋戦争まで」と副題にあるように、日本近代の戦争の原因を資料を渉猟して分析した書でした。

 たとえば、日清戦争の原因は何だったか?(日本史の復習です、関心のない方はDEL下さい)

 ここで、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」には、どう書いてあったかな?と思いました。考えたが思い出せない。「坂の上の雲」は昭和44年から47年まで全6巻が刊行され、本が出るのを待って直ぐ買って読みました。(私の書棚のこの本は、すべて初版本です。)

 その初版本の第1巻を取り出し、該当個所を開いてみました。

【ときに日本は19世紀にある。

 列強は互いに国家的利己心のみでうごき世界史はいわゆる帝国主義のエネルギーでうごいている。】

【・・・帝国主義はつづくが、そういう国家的利己主義も、国際法的にも思想的にも多くの制約をうけるようになり、いわばおとなの利己心というところまで老熟した時期、「明治日本」がこのなかまに入ってくるのである。】

【世界の中華であるとおもっている清国は清国で、日本人の欧化をけいべつした。もっとも日本人をけいべつしたのは、大清帝国の文明を信じ、その属邦でありつづけようとする朝鮮であった。「倭人なるものは唾棄すべきことにおのれの風俗をすてた」というそれだけの理由で日本を嫌悪し、日本の使者を追い返したことすらある。】

【産業技術と軍事技術は、西洋より400年おくれていた。それを一挙にまねることで、できれば一挙に身につけ、それによって西洋同様の富国強兵のほまれを得たいとおもった。・・西洋を真似て西洋の力を身につけねば、中国同様の亡国寸前の状態になるとおもった。

【西洋が興隆したそのエネルギー源はなにか、という点では、日本の国権論者はそれが帝国主義と植民地にあるとみた。民権論者も、「自由と民権にある」とは言いつつも多くのものが帝国主義をもあわせて認めた。】

【日本はより切実であった。

切実というのは、朝鮮への想いである。朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。・・・「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」というのが、日本の清国そのほか関係諸国に対するいいぶんであり・・・】

【日本は全権伊藤博文を天津におくって清国の李鴻章と談判せしめ、いわゆる天津条約をむすんだ。その要旨は、

「もし、朝鮮国に内乱や重大な変事があったばあい」

という想定のもとに

「その場合、両国もしくはそのどちらかが派兵するという必要がおこったとき、たがいに公文を往復しあって十分に了解をとげること。乱がおさまったときにはただちに撤兵すること」・・この条約によって日本は朝鮮の独立を保持しようとした。】

 そこに乱が起こった。東学党の乱です。韓国駐在の清国代表が袁世凱。チャンスとみて本国に派兵を要請。しかし日本陸軍の方がいちはやく出兵した。司馬さんはこう説明する。

日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本においてはやくから準備されていた。

と後世いわれたが、この痛切な批評をときの首相である伊藤博文がきけば仰天するであろう。伊藤にはそういう考え方はまったくなかった。】

【人類は多くの不幸を経、いわゆる帝国主義的戦争を犯罪としてみるまでにすすんだ。が、この物語りの当時の価値観は違っている。それを愛国的栄光の表現とみていた。】

 一方、加藤陽子さんは、日清戦争についてどう語っているか。

 明治15年伊藤博文が、憲法起草準備のためヨーロッパに出向いた際、ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインに教えを受けた。そして明治21年山県有朋は地方制度調査のため欧州に派遣された際、シュタインに日本の国防について意見を聴く。直接会ったのか使者を使ったのか判然としないが、シュタインの回答文書が史料として残っている。そこで、主権域(自国の主権の及ぶ範囲)、利益域(他国の領域であってもそこが自国の存亡に係る範囲)を説き、朝鮮について「ロシヤのシベリヤ鉄道着工(1891)が日本にとって死活的に重要になるのは、ロシヤが朝鮮の占領を考慮したときだ」と述べている。さらにシュタインは「朝鮮を占領するのではなく、朝鮮の中立を保つことが日本の利益域で、これを侵害するものが現れた場合、日本は軍事力に訴えてでも排除しなければならない」と、朝鮮の中立を日本の武力で担保せよという指針を与えている。

 また、当時の日本の軍事予算を図示して加藤さんは説明する。

 歳出に占める軍事費の割合は、明治16年まで20%以下、それが年々増加し18年に25%、24年には30%を越えている(軍事費削減について、国会の民党側も消極的だった)。

 そういう背景の中で、明治27年3月29日朝鮮全羅道で農民戦争が起こる。3月31日朝鮮国王は清国軍派遣を要請、清国軍が派遣される。6月2日、伊藤内閣は公使館・居留民保護を名分として派兵すること、翌3日一個旅団と軍艦の派遣を決定し、天津条約の規定に基き清国政府に出兵通告。

 その後は、陸奥外相から清国への農民戦争の共同討伐・朝鮮内政の共同改革申し入れ、(6月16日)、清国の拒絶(6月22日)、朝鮮公使大鳥圭介(函館維新戦争の大鳥がここにいた)による、清・朝鮮の宗属関係破棄破棄等を要求する朝鮮政府宛最後通告(7月20日)、豊島沖戦争開始(7月25日)、そして宣戦布告(8月1日)。

 加藤さんは史料を踏まえて開戦にいたる当時の政情を語っていく。噛み砕いて日清戦争の経緯を述べれば、司馬さんの書いているとおりですが、加藤さんは一つ一つの史料に当たっている。小説と歴史書の違いです。