経済学は死んだのか

 *[経済学ノート]『経済学は死んだのか』(奥村宏著、10年4月刊、平凡社新書)は面白い本でした。

『浜田(宏一、エール大学教授)が「一生のうちで最も有益だった研究上の助言」を受けたのはエール大学留学中のジェームス・トービンからのものであったという。当時、浜田は成長理論と国際資本移動との関係について博士論文を書こうとしていた。そこでトービン教授に対して「まず初めに今までの文献をサーベイしてみます」と言った。

 日本ではこれが当たり前で、教授は学生や院生に対して、論文を書く際まずこれまでの研究をサーベイせよ、というのが普通である。・・・これに対してトービンはどう言ったか?

 「それは止めたほうがよい。まず自分でしっかり考えることが先決だ」と答えた。』

 この著者の一貫して主張していることは、『明治時代から今日まで日本の経済学は、「輸入経済学」であった』。経済学は、「経済の学」でなく、日本にあっては、「マルクス経済学」の学であったり、「ケインズ経済学」の学であった。明治以降、イギリスやドイツ、戦後は特にアメリカに留学して、外国の学者の考えた経済学を学び日本に紹介することを業としてきた。外国に留学しても、外国の経済現象を研究していたわけではない。勿論、日本の経済を研究調査して自らの学問を編み出してはいなかった。

 だから、日本の経済学者は、サブプライム・ショックにも、リーマン・ショックにも適切な対応策を提案できていない。と著者は言う。

 外国に留学して、外国の学者の説を勉強することは、自然科学の場合には正しい。物理現象や化学現象は、日本でも外国でも同じです。しかし、経済のような社会現象は、外国と日本が同じ場合に同じ事象を起こすとは限らないのではないでしょうか。同じ環境に置かれても、民族によって人の反応は異なるからです。

 話は飛びますが、「高速道路無料化社会実験」というのが行なわれています。私は、自然科学は実験ができるが、社会科学は実験が出来ないと思っています。例えば、広島県の呉で「高速無料化」の実験をやっても、その結論が東京郊外の高速を無料化した場合に適用できるとは思えないのです。

 自然科学の実験は違います。水分子は水素原子2個と酸素原子一個からできるという結論は、ドイツでも日本でも変わらない。勿論、広島と東京で変わらない。

 ですから、経済学を外国から学ぶ場合、結論でなく研究手法を学ぶべきですが、外国の文献を読んで結論を知ることが、経済学を学ぶことだと錯覚してきました。

 ですから、著者の言うように、バブル崩壊後の「失われた20年」に有効な対策を、日本の経済学界は提供できていない。この本の筆者の主張には、まったく同感です。

 もうひとつ、筆者は「会社学」が専門です。

 『会社の哲学的考察・・・・現実にかかわる大問題である。日本では法人である会社に選挙権はないが、にもかかわらず政治献金をして会社が政治活動をしているのは矛盾している。そして個人に対する課税は累進課税で、所得の多い人ほど税率は高いが、法人税は一律であるのはどういうことか。それは源泉徴収と同じで、個人が配当をもらった段階で課税するという完全な法人擬制説に立っているのだが、その一方で会社にも社会的責任があるという主張がなされる。実在しないものがなぜ責任の主体になれるのか。会社は犯罪を犯しても刑務所には入れられないし、死刑にされることもない。』と主張しています。

私も選挙権のない企業が政治献金をすることには、疑問を持っているのです。