長崎グラバー邸父子2代

 グラバー邸と言えば、長崎の観光名所として有名だが、グラバーなる人物はどんな人であったか?『長崎グラバー邸父子2代』(集英社新書、10年9月刊)という本を見つけました。著者は、山口由美。1962年生まれのノンフィクシヨンライターで、箱根富士屋ホテルの創業者の曾孫だそうです。以下、その要点の紹介です。

 1838年、スコットランドのアヴァデーンに生まれたトーマス・B・グラバーは、1857年9月19日に長崎に上陸した。

 幕末の動乱期、武器や艦船の提供を通じて、倒幕派の薩摩・長州とつながりを持ったグラバーは、やがて商人の立場を越えて彼らと関るようになる。その一に若き藩士たちの海外留学の手引きがあった。留学生には伊藤博文井上馨などがいた。

 また、薩英戦争で緊張関係にあったイギリスと薩摩の仲介をとった。彼の役割を、幕末の歴史に位置付けようとするなら、イギリスと薩摩を結びつけることで薩長同盟に一役かったことに尽きる。この時坂本竜馬30歳、グラバー28歳。幕末、竜馬が駆け抜けた青春を、グラバーもまた駆け抜けた。

 維新後のグラバーは、三菱の経営にかかわり、名士としての地位を得た。日清日露の戦争が起きれば奔走し、日英同盟の締結に向けて、英国に日本の産業振興の状況を伝えた。

 グラバーが世を去ったのは、明治44年12月、享年73。.そのうち、実に52年を日本で過ごしている。日本の近代化とともに生きた人生であった。

 グラバーの子、倉場富三郎については一般には殆ど知られていない。日本に帰化し、倉場は勿論グラバーから来ている。

 富三郎は、長崎内外倶楽部の名士として長崎の財界の名士として活動する。

 開戦前の昭和14年6月、グラバー邸は三菱造船所の所有になる。軍からの要請があったようだ。理由は、長崎造船所の全貌がグラバー邸の庭から見渡せるからだった。

 当時、シュロのすだれで二重に覆われたなかで戦艦武蔵が建造されていた。日本国籍とはいえ、敵国の血筋の者が住んでいるのは、軍部には許せなかったらしい。

 造船所の礎を造り、日本に多数の軍艦を輸入したのは富三郎の父である。その父の息子が、自分の家に住むことが、スパイ嫌疑となる歴史の皮肉!

 昭和20年8月9日、原爆に被災する。青白い閃光が光、爆風が吹きぬけたその時、富三郎は下がり松9番館の居間で、愛犬のダックスフントを抱いて1人震えていたという。8月26日、彼は自殺する。子はなかった。

 建築家の藤森照信は、グラバー邸の一番の特徴は、<各部屋が外に向かって円形に張り出すクローバー型の構成>だと指摘する。

 藤森によれば、列強の植民地を伝うようにして地球の東と西に伝播していったヴェランダコロニアルの様式が吹き溜まりのように集まったのが日本であり、その中でひときわ美しい珠玉の作品がグラバー邸であると断言する。