パル判事

 岩波新書の2月の新刊ですが、中里成章著『パル判事』を読んでみました。東京裁判で、被告の無罪を訴えたインドのパル判事の、生まれと育ちから説き始めて、彼の思想と、東京裁判での彼の主張の妥当性を、比較的公平に分析しています。面白い記述が目につきました。

 「パル意見書の分析」という章です。

 【平和に関する罪に関してパルは、日本が戦争を起こした時に行われていた国際法では、侵略戦争は犯罪として処罰できるとはされていなかったから、被告らは無罪だとした。

詳しく言うと、1928年のパリ条約、国家的政策の手段として戦争を行うことなどは不法であるとされた。しかし、他方では、主要国は自衛権を留保しており、「自衛戦争」は依然として正当な戦争であった。ところが何が「自衛戦争」なのかという問題は、全面的に当事国にゆだねられていたというのが、パルの見解だった。

 こういう観点からは、東京裁判のような試みは、国家主権と自衛権に制限を加える試みであった。

 ところで、国際法というものは20世紀に入って変わり、現在も変わりつつある。・・・その変化の方向は、世界的公共性に基づいて国家主権を制限し、世界平和を実現しようとするところにあった。戦争と平和の問題についていえば、戦争の違法化への流れが生まれ勢いを増した。東京裁判はあるべき方向へ国際法を前進させるワン・ステプという位置づけを与えられる。オランダ代表判事レーリングの言葉をかりれば、東京裁判の判決は未来に向けた「法創造的効果」を持つ。

 このように東京裁判の積極的側面を重視する立場からは、国際法における事後法のような難しい争点も、そもそも法律不朔及の原則は絶対的な問題ではなく、英米法では弾力的に解釈する傾向にある。】というのです。

 どこが面白いのか?と思われるかもしれませんが、満州事変や日中戦争を「平和への罪」というような、当時規定されてない法律で裁くことができるか?パル判事は「出来ない」と「無罪」を主張したが、法の背景には思想があり、その思想は時代とともに変わる。従って時代思想の変化に斟酌すれば、「事後法」も弾力的に解釈できる。といっている点です。

つまり、

東京裁判は、日本の帝国主義を裁く裁判を、帝国主義の先輩の国々が行ったものと愚考します。日本の指導者(当時)が責められるべきは、侵略が違法とされる時代になってから侵略を行った。つまり、彼らが遅れてきた帝国主義者であったことだと思います。