1ドル50円時代を生き抜く日本経済

『1ドル50円時代を生き抜く日本経済』(浜矩子著、朝日新聞出版、11年1月刊)という本を衝動買いしました。
 歴史的にみると、ドルは世界の基軸通貨の地位を去りつつあり、次にくる時代は機軸通貨なき時代だ、というのが筆者の世界経済観のようです。以下、さわりを紹介します。
 第2章で、ユーロとEUの議論が面白い。『ユーロはドル代替通貨ではなく、その足元と行く先の心もとなさで、むしろドル類似通貨だ』
 経済の成熟度や体力が異なる国々の間で通貨を一つにしてしまうとどうなるか。そのことを、リーマン・ショック後のユーロ圏が実に生々しく、われわれに示してくれた。
リーマン・ショクのような世界レベルの経済事件が発生すると、衝撃は国境を容易に越え相対的弱小国を直撃する。逆にヒト・モノ・カネは安全を求めて相対的強大国に逃げ込んでいく。そこで弱者救済負担が強き者にのしかかる。下手をすれば、強き者たちも救済疲れで共倒れ。これは単なる一過性の問題でなく内部構造上の問題で、こうした弱点を抱えるユーロは機軸通貨たり得ない。
 通貨が一つであれば、金融政策もまた一本化せざるを得ない。少なくともそれが従来の常識だった。だが、ユーロ圏で発生する諸問題を見ていると、どうもこの常識は考え直す必要があるかもしれない。ユーロ圏に好況国もあれば不況国もあるのに、それらが等しく一つの金融政策によって決定される一つの政策金利を受け入れなければならない。それぞれの国が、自国にとって最適の金融政策を採って景気をコントロールすることができないのである。金融政策の自由度を封印されたとなれば、国々の経済運営は財政政策に頼るしかない。このように、経済状態が異なる国々の間で通貨統合を実施することの問題性は実に奥が深い。
 ユーロの問題点をもう一つ。
 アイスランドは、ユーロ圏にもEUにも入っていない。しかし、EUとの間で市場の相互開放が進むと、実態的にはEU加盟同然の体制で、それを利用して、アイスランドは高金利政策をテコにEU諸国から資金を集め、金融立国型の高度成長を実現した。その結果、一人当たり国民所得のランキングで世界上位に名を連ねた。ところがリーマン・ショックで国内の大手金融機関が軒並み経営破たん。アイスランドは事実上の国家破産状態だ。
 アイスランドもさりながら、当面の問題はアイルランドEUに加盟している)だ。アイルランドは、欧州単一市場化の伸展と外資導入の恩恵を受けて急成長を遂げた。法人税を12.5%ととびきり低くしてアメリカから大量の投資を呼び込んだ。90年代後半には、毎年10%前後の高度成長を記録した。かつての貧しい農業国が、2000年代半ば世界でもっとも豊かな国になったといわれた。それがリーマン・ショックで主要金融機関が軒並み経営破綻。いまや大手行はいずれも国家管理におかれ、それら金融機関の不良債権が想定以上に深刻で、政府が全額負担して処理するとなると10年度の財政赤字はGDPの30%を越え、銀行救済どころか政府そのものが倒れかねない。

 第3章では、日本の問題を論ずる。
 やせても枯れても日本は世界最大の債権国である。日本が持っているカネの流れ方がグローバル経済の行方を左右する。その意味で、日本円は<隠れ機軸通貨>である。
 円が<隠れ機軸通貨>的な力を持っていることを示したのが<円キャリートレード>でありリーマン・ショックである。リーマン・ショックに至るきっかけは世界的な金余り現象であり、この世界的カネ余りの発祥の地が日本であった。
 つまり、日本が90年代終りからリーマン・ショックに至るまで、10年を越える非常に長い期間ゼロ金利、あるいは量的緩和という政策を採り続けたことで、世界に低金利資金があふれ出ていくことになる。結局、これがリーマン・ショックをもたらした。
 日本のカネの流れが、悪さをすることで、世界中がこれだけ振り回されるのは、それだけ円の<隠れ機軸通貨>機能が高まっていることを示唆する。
 では円は<表機軸通貨>になるだろうか。それはないと筆者は述べる。私も同感です。なぜなら、<表機軸通貨>を有する国の金融政策は、世界経済のあり方を構想する構想力が要求される。それが、日本にあるとは、私には思えない。
 ドルの命運についてキャステイング・ボードを握っているのは、中東の湾岸諸国だ。
ドルの資産を持ちすぎていて、その価値が下がると困るという点では、中東も中国も同様の立場にある(日本もそうだが、アメリカにとって日本は物言わぬ株主だ)。
仮に中東諸国や中国が1$=50円になるという見通しを共有した場合には、どのような行動をとるだろうか。彼らの逃げ足は案外早いかもしれない。ただし、その退避先は限られている。円なのか金なのか、それともユーロにも向かうだろうか。前述したようにユーロの先行きはあぶなっかしい。(最近の円高の背景にこれがあるのだ)。
 第4章では、中国について述べる。
 「中国はいまや世界の工場になった」という言い方が盛んにされるようになった。この言い方は正しくない。中国が自力で世界の工場になったのではない。世界が中国を工場にしているのである。世界中の企業が中国に投資し、中国を生産拠点にしている。工場がある場所は確かに中国だ。だが、その工場群を形成しているのは、多くは中国企業ではなくて、中国にやってきた世界の企業たちなのである。こうした状況(中国が世界の工場)が生まれるのも、グローバル時代ならではのことだ。
 かくて、どの国の通貨も基軸通貨たり得ない時代になると筆者は説く。機軸通貨と決済通貨は同義語として使われる場合があるが、本質的な意味では誤用だと思う。決済のための便宜的手段としての通貨と、通貨金融秩序の要としての通貨はやはり次元が異なる。前者がおのずと後者の役割を果たすとは限らない。ドルも円もユーロも元も、決済通貨としては、ワン・オブ・ゼムとして使われていくが、機軸通貨はない時代に向かっていく
 第5章は、日本の通貨政策について。
1985年のプラザ合意。あの時が日本の通貨政策の大失敗の始まりであった。85年初には250円台だった円ドル相場は86年末160円、87年には120円台。円高不況を恐れる声が高く上がり、政府は対応に追われた。
財政面からは(この頃から既に財政再建が課題になっていた)政府が出来ることには限界があった。円高不況阻止の大役はもっぱら金融政策に課せられた。かくして日銀は、大幅な金融緩和に踏み切った。金融大漢和はマネーサプライの急膨張をもたらしバブルを生んだ。そのバブルが破綻して「失われた10年」がやってきた。
もし「失われた10年」がなければ、小泉純一郎という奇人政治家が出てきて、日本をさらに一段の混迷に追い込むこともなかっただろう。
筆者は「円高をひたすら脅威と受け止め、その不況効果を減殺することばかりに神経を集中した」ことが誤りで、円高のメリットを生かせる日本経済の構造転換に努力すべきだったという。
以下、第6章で、「政治に経済は変えられない。政治はあくまで経済的変化に反応し、対応すべきもので、政治の都合で経済を振り回すと、後でしっぺ返しを受ける。基本姿勢としては、政治・安全保障上の考慮が経済を振り回すことは控えるのが得策と、「尖閣問題」などに言及する。
そして、これからの経済のキーワードとして「Think Local、Act Global」と、資本もヒトも「去る者は追わず来る者は拒まず」と説く。
第7章では、「行政のあり方」。それぞれの自治体が「Think Local、Act Global」。道州制について、「財政難からどう脱却するか」でなく、「地域主導をどう実現するか」の発想からスタートすべしと、と地域主権と経済との関係を述べる。
筆者は、英国のサッチャー政権について面白い指摘をしている。
イギリスでは1箇所だけ金融のバブルに乗って高く舞い上がったロンドン経済が、リーマン・ショック以来の金融危機で、一気に暗転してしまった。
サッチャー政権の末期から90年代の半ばぐらいまで、イギリスの製造業といえばその実態は概ね日本メーカーばかりという様相を呈していた。それはそれで上手に人のふんどしで相撲をとっていたわけだが、その間にイギリスの中小企業、あるいは衰えを見せていた大企業たちが技術的な力を上げて復活していったかというと、そうはならなかった。
イギリスにおける日本の製造業が割高なポンドによって価格競争力を失い、EUに新規加盟してきた東欧諸国などに生産拠点を移していくと、結局はまた空洞化時代に逆戻りだった。イギリスで一極集中が進み、地方が疲弊してしまったのは、サッチャーリズムが想定された以上に経済の集中化を進めてしまったためである。
第8章で、今後の政治。
民主党政権発足時の鳩山前首相の初心表明演説はよく出来ていた(私も同感)。民主党政権は初心にもどるべきだ」と述べています。
追伸:この本は、大震災の前に刊行されました。大震災で、国力を弱めた日本が、1ドル50円を実現するとは思えなくなりました。そのことは、日本にとって不運なのか、あるいは幸運なのか。いずれにしても、興味深い著作でした。