田中角栄 封じられた資源戦略

原発と権力」で、著者山岡淳一郎さんを紹介しましたが、この著者の発想法の依ってきたる処を知りたくて、著書を調べてみました。2009年刊行の「田中角栄 封じられた資源戦略」があることを知り、副題の「石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い」に惹かれて読んでみました。以下、そのさわり。
圧巻は、1974年フランス大統領ポンピドーの急死に際して角栄の見せた弔問外交です。
『田中が「会談をしたい」と各国首脳に呼びかけると、色よい返事が次々と返ってきた。・・・モスクワの空港では、コスイギン首相が出迎えた。シベリヤの開発(チェミニ油田開発、第二シベリヤ鉄道)を持ちかけたのである。フランスのメスメル首相とニジェールのウラン開発を話し合う。西ドイツのブラント首相と会談し、「石油危機は開発途上国を直撃した。この面からの国際協力が必要」と説き、また「シベリヤ開発に関心があるなら連絡してほしい」と誘う。英国ウィルソン首相(労働党)には「政権が変わっても北海油田開発から外資を締め出さないでほしい」と申し入れた。カナダのトルドー首相とは、資源開発の推進を語り合う(カナダのウランやタールサンドに田中は狙いを定めていた)。米国のニクソンの宿舎を訪問した。ニクソンは貿易問題で日本を「評価」したが、田中の石油危機にともなう途上国への配慮には上の空、シベリヤ開発に米国の参加を求めても反応しなかった(当時のニクソンはウオーターゲートでそれどころでなかった)。
三日足らずの弔問外交で、田中は涙ぐましい奮闘をみせた』
「石油の一滴は血の一滴」という言葉を、角栄は頻繁に言ったそうだ。日本の発展には資源の確保が不可欠。石油とその後に来る原子力の時代(と角栄は考えた)に備え、ウラン資源の入手に手を打つべきと考えたのである。
この意味で、その考えが正しかったかどうかは別にして、構想力を持った政治家であった。しかし、彼の悲劇は、「資源をどう抑えるか」は、米国の世界戦略であり、彼が奮闘すればするほど、米国の世界戦略に逆らう結果になったことである。しかも、そのことに気付かなかった。
そして、田中金脈問題、ロッキード問題が発生する。なぜか、日本の政治家が米国の戦略に逆らう発言をすると、途端にスキャンダル問題が起こる。
石油→ウラン→原発と筆者の思索は進行したようだ。「原発と権力」に至る軌跡が読み取れる。原発と原爆との関わりを、著者は次の記述で明らかにする。
『74年5月18日、インドは原爆の地下核爆発実験に成功し、米、ソ、英、仏、中に次ぐ6番目の核保有国となった。原爆には濃縮ウランで製造される広島投下型と、燃えないウラン238を変換したプルトニウムでつくる長崎投下型があるが、インドが実験に使ったのは後者だった。
そのプルトニウムは、平和利用の名目でカナダから購入した重水炉の使用済み核燃料を「再処理」したものだった。世界中に衝撃が走った。インドは、原発を使う目的を「電力」から「爆弾」へ政治的に変えただけで、貧しい国であっても核兵器を持てることを証明した。ウラン濃縮、もしくは使用済み核燃料の再処理の技術さえあれば、気のふれた独裁者であれ、偏狭なテロリストであれ、原爆を所有できる。原発が核拡散に直結する時代の扉が、こじ開けられたのであった。
インドは、国境を接する中国が64年に新疆ウィグル自治区のロアノール湖で始めて核実験をして以来、核兵器開発に血眼になった。・・・』