時間と自己

『時間と自己』(木村敏著、中公新書、1982年初版、2009年3月25版)を、図書館で探しだし読んでみました。歌人穂村弘が週刊誌の「私の10冊」という欄に、この本を取り上げていたので、「そういう本あるの?」と読んでみる気になったのです。
 著者の1931年生まれ、精神科医(京大医学部卒)とのこと。ネットで調べてみたら、この本は大学入試センターの試験にたびたび取り上げられているらしい。
http://www.kawai-juku.ac.jp/kawaijuku/information/20120116.html
古い本だが、25版ということは、かなり読まれているようだ。
 第1章で「離人症」という精神疾患を取り上げています。離人症という病気は、私も初めてききましたが、英語でいうと「depersonalisation」。これは、「自分自身という感覚がなくなって、自分に生じている事柄が第3者に起きているように感じられる」病気らしい。
 この病気の患者は、時間が流れるという感覚がなくなって、「時間がバラバラになってしまって、てんでばらばらにつながりのない無数のいまが、いま、いま、いまとむちゃくちゃにでてくるだけ」だそうです。筆者によると、離人症患者は、「ものは知覚できるのだけれど、ことは知覚できない」のだそうです。たとえば、林檎というものは理解できるが、林檎が「落ちる」ということは理解できない。それは、落ち始めてから地上に落ちるまでの時間が感じとれないと、理解できないからです。
このことから、ことという感覚は、時間を感ずる感覚から生まれると、独特の時間論を展開するのです。
 これを読んで、離人症の認識する「時間」というものは、馬や犬など動物の認識する「時間」のようなものなのではないか、とふと思った。彼らには、常に、いま」しかないのでは?
 だとすると、「時間を認識する」行為は人間特有の行為であて、それは、人間の「自己を認識する」行為と密接に関係しているのでは?
筆者は精神科医である。精神科の医師が患者の症状から人間の思考を考察するのは、生物学者が、ノックアウトマウスから遺伝子の機能を推論するのと同じではないかと思いました。
 あとがきで、筆者はこう述べる。
『若いころに京大の辻村公一教授の指導でハイデッガーを読んでいたころ、辻村さんがふと漏らされた「ハイデッガーと西田先生の違いは、ハイデッガーでは将来が中心になるのに西田先生では現在が中心になることだ」という言葉が、その後もずっと私の心を離れなかったが、癲癇に関係して「現在」という時間のことを考えているうちに、禅の考えはずいぶん癲癇的だと思うようになった。』
 筆者は医者になる前から「時間」に関心を持ち続けていたようです。