「日本人の宗教」

を考えてみたいと思いました。
住宅のシニアクラブのウオーキングの企画で、市内の街並みを度々歩きましたが、名古屋市内の街中のいたるところに神社仏閣があるのですね。「日本人は無宗教だ」などと言われますが、こえだけ古くからお寺や神社を立ててお守りしているのだから、「日本人は宗教心の篤い民族ではないのか」としばしば思いました。
 たまたま、本屋で立ち読みしていて、「一向一揆共和国・まほろばの闇」(五木寛之著、ちくま文庫、2014年7月刊)を見つけて読んでみました。
前半は、北陸の「百姓の持ちたる国」、加賀の一向一揆(1488)の歴史の跡をたどる紀行文、後半は、大和の地に、聖徳太子親鸞・水平社運動の歴史に思いをはせる紀行文でした。前半の北陸紀行をご紹介します。
 最初に、「吉崎御坊」の話から始まりました。「吉崎御坊」は、昔、日本史で聞いた記憶がありますが、詳しいことはしりませんでした。
一向一揆の物語は、蓮如の登場から始まる。蓮如が越前の吉崎(福井・石川の県境、現在のあわら市吉崎)の地に坊舎を開いて(1471)、北陸一帯に真宗を広めたことが、一向一揆の発端となった。
 吉崎御坊の本堂跡には、蓮如上人の銅像がある。作者は、高村光雲、昭和9年制作とのこと。
 地元の人の話によると、太平洋戦争の最中に、鉄や銅いろいろな鉱物資源が枯渇して、銅像などの供出を軍に命じられたことがあった。全国の小学校から「手本は二宮金次郎」像が消えた。ある日、工兵隊がこの蓮如像を強制的に撤去しにやってくるという噂が流れた。地元の真宗門徒たちは、夜中からずっとこの像の前に人垣を作り、かがり火をたいて絶対に渡すものか、というかまえだったそうだ。像は撤去されずに済んだ。一向一揆の後裔にふさわしいエピソードです。
次に「内灘」。
 内灘は、金沢市から北西に10kmほど離れた日本海に面した寒村だった。その内灘一帯を在日米軍の砲弾試射場のために接収するという話が昭和27年に持ちあがり、翌年春、一時使用という条件付きで試射場ができた。ところが、その後、政府は一時使用という条件を撤回し、試射場の継続使用と永久接収の方針を決定した。その政府の強硬姿勢に村民の怒りが爆発して、いわゆる内灘闘争が起こった。
 あの時、日本中からあらゆる人たちが内灘へ、内灘へと向かっているようだった。
 一向一揆は地元の門徒だけで戦ったのではない。あちこちから大勢の門徒が駆け付けて協力した。内灘闘争同様遠くから加賀へとはせ参じた人たちも大勢いたことを連想させる。
為政者側から一揆をみると、
 一向一揆は、真宗門徒側から見れば、「仏敵」の信長や大名に対して戦ったもので、正義の戦いだった。しかし、一揆の発生を恐れた側では。それと正反対の見方をしていただろう。そして江戸時代に入って幕藩体制が確立すると、お上に逆らう仏教徒による一向一揆は、当然のことながら「悪」とされた。
 一向一揆は15世紀後半から16世紀後半にかけて嵐のように吹き荒れた。それまで雑草のように思われていた民衆や百姓たちが、一国の守護大名をせめてうち滅ぼしたという情報は、日本列島の隅々まで語り伝えられ、当時の大名や武将たちを震撼させた。
 天下統一を目指す織田信長は、本願寺教団に対して異常なほど敵意を抱き、容赦なく攻撃した。
 いま、日本人は海外からエコノミックアニマルだとか、テクノロジーに長けた現実的な国民のように見られているが、鹿児島や熊本の「隠れ念仏」の信者たちは、拷問されたり磔や打ち首になっても命がけで自分の信仰を護ろうとした。
日本人が「あなたの宗教は?」と聞かれて、「無宗教です」と平然と答えるようになったのは、信長、家康などの施策、江戸時代の幕府の統治方針に影響されたと、私は考えます。
「金沢」について。
 長享2年(1488)加賀に誕生した「百姓の持ちたる国」に政治と信仰の中心となる「金沢御堂」が、現在の金沢城址に天文15年(1546)建立された。御堂を中心とする寺内町が金沢の発祥である(岩波新書 山出保著「金沢をあるく」参照)。

後半は大和紀行ですが、、大和の光と影の部分を紀行していく。。
「うらうらに照れる春日に雲雀上り、情(こころ)悲しも 独りし思えば
そして、奈良盆地のどこからでも西に見られるのが二上山
 「次第に闇の中に沈んでいく二上山のシルエットを見つめていると、目の前に幻のようにぼんやりとある光景が浮かび上がる。それは飛鳥時代の貴人の葬儀の行列のようだ。」
以下、詳細は割愛します。