布施英利著「美術的に正しい」仏像の見方

 第2章で日本への仏教伝来(御参拝(538))以後の仏像の歴史について興味深い指摘がありました。
ガンダーラやマトウラーの仏像と比較してみると、日本の仏像が「子供」である特徴が、より強く見えてくるはずです。
「仏像には、子供の面影がある」。あらためて、そういう視点から眺めてみると、かなりの仏像に、このルールが当てはまります。
こういう「子ども」の仏像は、いったい、いつ、どこで作られるとうになったか。はたして仏像が「子供」になったのは、飛鳥時代の仏教伝来からか、中国、朝鮮半島と伝わっていく「どこかの時点」なのか。仏像の変遷を、東京国立博物館のアジヤの所蔵品で復習する。
 仏像に子供の姿を込めるという発明は、日本に仏像が伝わる以前にされていた。
しかし、私は考えます。あどけない幼児の面影を映した仏像は、日本に独自のものではないか。あそこまで極端に、あからさまに、あるいはじっくりと子供を観察し、それをモデルとして仏像を作ったというのは「日本」に始まった。いや、日本で洗練され、展開されたものではないか。
 日本の仏像は、まさに「仏像の子供」なのです。
 次に素材から、仏像について考えてみます。
平安時代には、木彫りの仏像が多く作られました。木彫りには「一木づくり」と「寄木作り」がある。「寄木造り」の技法を完成させたのが、平安時代の仏師、定朝で彼の代表作が、宇治平等院鳳凰堂の『阿弥陀如来像』です。
 魅力的な「一木造り」の仏像は、平安前期に多い。代表的な仏像として神護寺の『薬師如来立像』があります。もしこの仏像が人体だったら、いったいどんなトレーニングで鍛え上げたかと思わせるほどたくましい太ももをしている。太ももだけでなく、全身から圧倒的な「重量感」が溢れています。
平安時代初期(貞観弘仁文化)の仏像は、そのほとんどに重量感がある。樹木は大地に根を張り、太い幹を天に向かって伸ばします。そんな樹木に似た仏像であるかのようです。
 「神護寺」という名前には「神」という文字があり、「いったい仏教に神なんていたのか」と矛盾も感じます。神護寺は、仏像がある仏教寺院ですが、そこには日本古来の神道の流れも入り込む。神道の特徴の一つは、アニミズムです。植物や石や川や森などあらゆるものに神を見ます。八百万の神です。つまり自然のあれこれを信仰する。自然のあれこれに何か大切なものを感じその神秘に触れようとする。そういう日本に仏教が伝来する前からあった信仰のようなもの、それが『薬師如来立像』にも流れ込んでいる。
 インドでつくられた仏像が日本に伝わり、この時になって、日本にあった古来の感覚と一つになりました。つまり、仏像が日本化されたのです。
 神護寺の『薬師如来立像』の手の指は、まるで赤ん坊のそれのような造形です。しかもそれは神護寺だけでなく、新薬師寺の『薬師如来立像』にもまったく同じ特徴が見て取れます。
インドで発明された仏像が中国、朝鮮半島を経て日本へ伝来する過程でその性格を変質させていく。日本において二つの「自然」が仏像に新たな息吹として吹き込まれた。一つは「子供の身体」という自然、もう一つは「森の樹木」という自然です。
 伊豆半島修善寺近くに小さなお寺がある。願成就院です。ここに30代の若き運慶が仏像を残しました。30代の運慶の彫刻は奈良にも京都にもない。鎌倉という新しい時代が始まるとき、新しい仏像のスタイルを造ろうと格闘した運慶の戦いの記録が残されています。

運慶は、興福寺・北円堂に『無著・世親像』という傑作を残している。
二つの彫刻は年齢的には、世親の方が「壮年」、無著の方が「老人」の風貌で造形されている。この像の「立ち姿」に注目してみてください。
 ヒトの身体的特徴は何かと言えば,二本の足で「直立」することです。ヒトの体というと、例えば「脳が大きい」ことが特徴と考えてしまいがちです。確かに体の大きさに比べ脳が大きい。しかし、何故脳が大きいかというと、それは「立ち上がった」からです。二本の脚で立つことで頸の前にあった頭部が頸の上に上がった。頸の骨(頸椎)により重い頭が支えられる。ヒトは立って、垂直の姿勢になったことで脳が大きくなり、前足が歩行や走行などの運動から解放された。大きな脳と自由な手、これによって文明が生まれました。
 ともあれ、ヒトの体の特徴は「立つ」ことで、鎌倉時代の彫刻は、建っているさまが美しく造形されている。
その立ち姿は、森に立つ樹木の幹も連想させる。一木造りは樹木の存在感を強調しています。