『資本主義の極意』

佐藤優著、NHK新書、16年1月刊)
マルクスの「資本論」を通読したいと考えていますが、簡単に通読できる代物ではないので、要点を新書本程度の容量で解説してくれる本はないかとかねてから探していました。恰好の書物を見つけました。それがこの本です。
まず、資本主義社会の分析を「原理論」、「段階論」、「現状分析」の三つのステップで行います。これは、宇野弘蔵の経済理論をベースにしています。
原理論とは、19世紀半ばのイギリスを典型にする自由主義的経済状況をモデルに、資本主義の純粋な形態を説明する、
その純粋形態に国家が介入してくると、重商主義から自由主義的な資本主義、さらには帝国主義的資本主義へと段階的に移行する。「原理論」、「段階論」を踏まえて今存在する現在の資本主義を分析するのが「現状分析」です。
貨幣はどのようにして資本に転化したか。
W→G→W
G→W→W‘(G+g’)
第一の式は商品を貨幣を媒介にして商品と交換する。
第二の式はカネを元手に仕入れた商品を貨幣に交換するとき貨幣が増える。この増える貨幣が資本です。この貨幣が増殖運動をするのが資本主義。つまりこの時貨幣は資本になる。貨幣が資本になっただけでは資本主義社会が動き出すのではない。資本主義社会が動くためには「労働力の商品化」が必要です。
労働力の商品化が起こるには「二重の自由」が必要です。第一に、労働者は、美緒文的な制約や土地への拘束から離れて自由に移動できる。
第二に自分の土地と生産手段を持たない(free from)こと。この場合「自由」とは「持っていない」ということ。この「二重の自由」があって自分の労働力を商品化できる。この観点から、明治の「地租改正」で労働力の商品化が起きたかどうか、を論ずる。
マルクス主義研究者の間に30年代「日本資本主義論争」と言われる論争があった。
「労働力の商品化」が不十分だから明治維新ブルジョア革命がおきていない。従って資本主義社会はきていない」と解釈したのが、日本共産党系の「講座派」で、明治以降の社会は、天皇を頂点とする絶対主義と位置付けた。
講座派は、明治維新で作られた日本は絶対主義国家だから、まず天皇制を打破して日本を資本主義社会にすべきであり、その後社会主義革命を起こそうという二段階革命で社会主義実現をめざした。労農派は、明治維新を市民革命ととらえ、日本は既に資本主義国で帝国主義国になっている。直ちに(1段階で)社会主義革命を行うべきだと考えた。
共産党系の「労農派」と呼ばれるグループは明治の革命はブルジョア革命だったと考えた。「講座派」という名前は『日本資本主義発達史講座』という全集の執筆者を意味します。一方、「労農派は『労農』という雑誌の執筆者です。
「講座派」と「労農派」は一見対立しているかに見えるが、ある前提を共有している。それはどんな国でも資本主義は一様に形成されるという前提です。これと異なる解釈を提出したのが宇野弘蔵で、彼は「最初に資本主義社会を作り出したイギリスと、後発で資本主義を導入した国とでは、資本主義の発展の仕方が異なるのでは?」と考えた。
1880年代「官から民へ」の動きが加速する。政府がそれまで官営で経営していた工場や鉱山、造船所を民間に払い下げる。1880年代は国家による地ならしを終えて、日本の資本主義が助走を始めた時期であった。つまり、日本の資本主義は、そのスタートから国家の主導で始まった。国家の関与しない資本主義社会を想定した「原理論」とは異なる理論が必要で、宇野が唱えたのが「段階論」であった。
1890年(明治23年)日本は初めての恐慌を経験する。さらに1900年、1907年、1920年と恐慌が発生する。19世紀以降、欧米の営本主義国でも、やはり8〜10年感覚で不況が発生する。正統派のマルクス主義経済学と宇野派経済学では恐慌に対する考え方が大きく異なる。
正統派にとって、恐慌は資本主義の限界を示し革命につながる現象ととらえる。恐慌が起きると、大量に失業者が生まれ、彼らが「資本主義をぶち壊せ」と立ち上がり、資本主義は崩壊すると考えた。
しかし、宇野経済学の「原理論」では、恐慌は資本主義システムが回り続ける過程で不可欠の現象ととらえる。
恐慌の発生は、それまでの生産方法ではもう利益を上げられないことを意味する。
別の言い方をすると、資本の利益を上げられる投資先がなくなる。そこで、生産方法を変えて利益を上げれば良いと、イノベーシヨンが起きる。恐慌とイノベーシヨンを繰り返し、資本主義はあたかも永続するかのごとく続くというのが宇野経済学です。
もう一つ宇野経済学の特徴は国家の役割を大きくとらえる。
マルクスの『資本論』は「社会」を分析した本なので、社会の外にある国家には分析が及んでいない。だから国家については『資本論』とは別に考えないといけない。資本主義社会と国家の関係を考える時、避けて通れないのが「帝国主義」の問題です。日本は帝国主義時代の真っただ中で、資本主義社会を成立させた。帝国主義の段階では、金融資本が支配的になり、企業や銀行の独占が進む。こうした独占資本は、自国内で有利な投資先が見いだせなくなると、海外に市場を求め資本輸出を積極的に行う。これをアシストすべく国家は植民地を拡大していく。
宇野経済学の「段階論」は資本主義に対する国家の介入に着目した理論です。
宇野経済学では、1917年のロシヤ革命以降は「現状分析」の課題です。社会主義革命を阻止するという政治的思惑から、国家が資本家に対して譲歩を迫り、資本の利潤を犠牲にしても労働者の福祉政策や失業対策を行うからです。これが「国家独占資本主魏」の状態、近経の言うケインズ政策福祉国家社会民主主義は錦司の概念です。
ところが、1991年12月ソ連が崩壊し社会主義世界システムに大きな影響を与えることはなくなった。資本主義は再び、利潤の最大化を目指す。90年代以降は、新自由主義グローバル資本主義が加速します。
旧来の自由主義新自由主義とどこが異なるか。旧自由主義を支配した資本は産業資本だが、新自由主義の資本は金融資本です。言い換えると、旧来の自由主義は個人や個別企業だったが、新自由主義の主体は独占資本。現代版の独占資本とは多国籍企業です。
両者で共通しているのは、どちらも覇権国が存在すること。
現代の帝国主義は、コストのかかる植民地を持たず全面戦争を避けようとする。
現代の資本主義の最大の課題は、資本の過剰をどう処理するか。
資本の過剰とは、お金は沢山あるけれども投資先―---つまり儲ける先がなくなってしまう。資本の過剰は恐慌か戦争で処理されることになる。世界恐慌後の日本が満州に進出して恐慌を脱したように、現代の日本も軍事産業の対外進出で、資本の過剰を乗り切ろうとしている。
ここでアベノミクスの考察にうつる。
安倍政権の武器輸出3原則の緩和、安保関連法案の成立は、安倍政権が軍事産業の対外輸出を最大の成長戦略と位置付けていることを意味します。
またTPPを指してグローバル資本主義のなせる業というのは誤り。グローバル資本主義だったら、特定の区域を設ける必要はない。グローバル資本主義を実現するのならWTOを世界に拡大すればいい。
TPPの本質は「域内では新自由主義を貫徹し域外に対しては帝国主義的に差別すること」。
日銀が国債を買い取り大量に紙幣を供給すれば、さらに資本が過剰になっていく。これは資本主義の危機を深めると考える人もいるでしょう。
その考察は間違っていない。
紙幣を刷ってばらまけば物価は上がり、デフレから脱却できるというのは、貨幣数量説に基づくが、貨幣数量説の根底には「通貨制度は管理できる」という信念がある。これに対して宇野は「管理できない管理通貨制度」という名言を残しました。マルクス貨幣論のキモは、「貨幣数量説は通用しない」という点です。貨幣は商品交換の必要性から生まれたから、使わなければただの持ち腐れ。しかし、貨幣自体に価値のあるように思う人が増えてくると、インフレ期待があっても「お金が減価するならばお金は大切だから貯めておこうとする人がでてきます。
金融資本が支配する現下の資本主義では、資本も含めた過剰マネーは、輸出と投機により処理される。アベノミクスはタイミング良くその波に乗ったため、円安と株高は起きた。しかし日本がそこから得た利益は意外なほど少ない。
円安になっても、多くの企業は生産拠点を海外にうつしているので輸出はたいして伸びない。株高で最も儲けたのは外国人株主です。
個人も国家も貧しくなっていく時代に、私たちはどのようにして生きていけばいいか。これは「資本主義とどのように付き合っていけばいいか」という問いに置き換えることができる。というのがこの本の流れ。書名、「資本主義の極意」の意味です。