昭和史(戦後編)

 半藤一利著『昭和史 戦後編』(文芸春秋刊、¥1600+T)
を読みました。これって、半藤さんの講談「戦後史」ですね。
しかし、自分の子供の頃の政治の動きはこうであったか、と納得させられる本です。
以下、そのさわりの一部。
内務省が中心となり、連合軍の本土進駐を迎えるにあたって18日(終戦の3日後)に打ち出した策は・・・いわゆる「良家の子女」たちになにごとがおこるかわからないというので、その”防波堤”として、迎えた進駐軍にサービスするための「特殊慰安施設」をつくろうという・・・当時の特殊慰安施設理事が語っています。
「池田さんの『いくら必要か』という質問に副理事長が『一億円ぐらい』と答える
と、池田さんは『一億で純潔が守れるなら安い』といわれた。 これはあくまで「良家の子女」の純潔です。ちなみに池田さんというのは、当時の大蔵省主税局長でのちの首相、池田勇人です。】
マッカーサーに会った近衛さん(当時副首相)が
「政府の構成(constitusion)について何か意見がございますか」
「第一に憲法(Constitusion)は改正を要する」
 近衛さんは憲法改正の委任を受けたと誤解した。(結局日本側の改正案はGHQが満足せず)2月4日、ホイットニー(GHQ民生局長)は朝鮮担当を外した民生局の全員,25名を集めて大号令を出した。
「これからの一週間、わが民生局が憲法制定の役割を担うことになった・・・」
 日本政府にGHQ案が提示されたのは、2月12日だった。】
【講和会議が開催された9月4日、全権大使・吉田茂首相が短い演説をしたなかでこう述べています。
「外交の権力をもっていない国は亡びるともいいますが、この条約によって国際社会に戻ることになった日本は、真に外交能力をもつ国になりたい」
「真に外交能力をもつ国になりたい」と強く主張したものの、その後の日本はどうであったか。】
【昭和30年代終り頃に、私は「文藝春秋」編集部にいて吉田さんにインタビューしたことがあります。「お元気ですねえ」と声をかけると、葉巻をふかしながら
「うーん、俺はなにしろ人を食って生きているからねえ」
「おいしいですか」
「いやぁ、あんまりうまくねえなあ」】
【(戦後の改革について)私が一つ思うのは、民法を変えさせたのは日本の国柄が変わるのに非常に大きな影響を与え、それはいい影響ばかりでなく悪い影響もたくさんあったのではないか】
【この時代(占領期)の最大の決断は、首相の吉田さんのそれであったと思います。
ダレスが独立後の日本の安全保障だけではなく、自由主義世界への貢献のため再軍備が必要だとガンガン迫ったのに、これを敢然として拒否した。ほかの政治家であったら、とてもできないことであったでしょうな】
私見ですが、憲法9条は、吉田さんにとって、軍閥復活への防波堤でした)
【要するに、バブル経済崩壊後の日本人がやっていることはノモンハン、つまり戦前の時代と変わらないんじゃないか。やはり幻想的であり、独善的であり、泥縄的というところがあるということ。・・・最初の頃はじつに熱心で誠実だった官僚も、二代目,三代目になってくると、やはり官僚は官僚と言いますか、戦争中の官僚である軍人、参謀連中がやったのと同じようなことを繰り返してしまう】
(”天皇の軍隊”は敗戦で消滅したが”天皇の官僚”は生き残った!)