タラとレバ

 「”タラ”とか”レバ”は厳禁だ」と、若い頃、言い聞かされました。「こうしタラ良いだろう」とか「こうすレバ良いだろう」と言うな!そう思ったら、言う前にやってみろ!というのです。
 生産現場で厳禁の”タラ””レバ”に、日本歴史の世界で挑戦してみようという、一寸変わった本を読みました。
 「あの時こうしていたら日米戦争には到らなかった」を、明治時代まで遡って検討
した本です。 ”タラ””レバ”は役に立たないと思い込んでいた私ですが、この”タラ””レ
バ”、意外に美味しいんじゃないかと新発見の気分です。
 書名は『「たら」「れば」で読み直す日本近代史』黒野耐著(講談社)です。著者は、自衛隊で陸上防衛監部調査部など歴任、陸相補で退官したと言います。
 「たら」「れば」が良いという意味は、あの時こうしたらと言ってみても、そうしなかったんです。何故そうしなかったかを考えると、当時の社会がよく分かる。つまり、歴史を実感できるという意味です。
 その実例を一つ紹介しましょう。
 日露戦争後のポーツマス講和会議で、日本は満鉄の経営権を得たのです。この時、米国の鉄道王といわれた実業家が、満鉄の共同経営を日本政府に申し入れた。当時の桂首相は了承し、一旦政府は承諾したが、小村外相が強硬に反対して撤回してしまった。
 「満鉄の日米共同経営が成立するということは、日米両国民の間に目に見える形で、アメリカの資本と日本の労働力が結合したシンジケートを日本の軍事力が防衛するという姿が出現することになる」と著者は述べる。その後の日米の対立は、日本が中国の利権を独占するという米国の危惧が原因ですから、これが実現していたら、太平洋戦争突入はなかった。まさに歴史は変わっていた。
 では何故小村外相は反対したか?ポーツマスの交渉で、国民が期待していたロシヤからの賠償金は一銭も取れなかった。更に満鉄の利権も半分アメリカに渡すと国民に何を言われるか分からない、と外相(ポーツマスの交渉当事者)は思った?と私は邪推します。

 関ヶ原の合戦で、掛川の城を丸ごと(半分でない)家康に提供した山内一豊の知恵(千代さんの知恵かな?)を、当時の日本政府の首脳は学ぶべきだった。

  こうした話を、明治大正昭和の各ステージで語り、最後に著者はこう述べています。
 「国家が安全に絶え間なく発展していくためには、・・・・真に有能な指導者を養成していくエリート教育にも力を入れていくことの重要性を痛感する・・」