「おとな二人の午後」

 数日前、プールの帰りに図書館(プールの3階)をのぞくと新着本の棚に沢山本が並んでいる。手にとって見ると、寄贈本です。本の整理に困惑したら図書館に寄付すれば、きちんと整理しておいてくれます。

 面白そうな本は?と眺めて2冊借りてきました。一冊は「おとな二人の午後」と題する五木寛之塩野七生の対談集(00年6月刊、世界文化社)です。

以下、味な対談の一例。

 五木「いま、日本人は、明治とか戦後とはちがうほんとうの意味での、創氏改名みたいなことを要求されてるんだろうと思います。
ふり返れば明治以来の和魂洋才がだめだったということがはっきりわかったのが、結局敗戦なんです。」
塩野「ほんと、そうです。」
五木「資本主義のシステムはヨーロッパから入るけれども、そのバックボーンは国家神道なり、絶対天皇制でやろうというのが明治以後の和魂洋才。
それが敗戦でだめになって、今度は、戦後50年はどうやってきたか。もう和魂は入れられないから、魂をなしにして、無魂洋才でやってきたんじゃないかというのが僕の見方なんですよ。
それもバブルでご破算になって、やっぱり無魂だからモラルハザードが起きる。資本主義の根本にかえって、、もう一度きちんと洋魂洋才でいけといわれているのが現在です。しかし、日本というのは不思議な国で、キリスト教が日本に伝来してから450年ぐらいになるけれど、正式の信徒はだいたい国民のほぼ1.5%くらいでしょうか。」
塩野「そう、日本では一向に増えないですよ。・・・だから、いいんじゃないかと思うの」
五木「そう、大事なところなんです。でも、いま言われているグローバル・スタンダードでは、それが許さないって言われてるようなもんでしょ。」
塩野「そこなんだけど、銀行にしても、なにもみんなすべての銀行がグローバルになる必要はないんだから、・・・国内だけで営業する銀行でもいいと思うのよ。二本立てでやればいいんですよ。日本人全部が、それこそ鹿鳴館のときみたいに変わらなきゃなんて、そんな必要ないですね。」
五木「必要ないし、変わるべきじゃないと思うんだけど、なにがなんでも変われって言われてるんだから、それはたいへんです。要するに、がんばって洋魂洋才に変えようとしているけれども、根のところの感受性とか魂は、この狭い列島の中で何万年も生きてきた国民が、そう簡単に変えられるわけがない。」
塩野「私、思うのはね。われわれは昔、和魂洋才だった。その和魂の中にヨーロッパの洋魂と通じるものがちゃんとあることを、欧米人に言えばいいのであって、そしたら、もう和魂じゃなくなるんです。和魂でありつつ、かつインターナショナルな指標になる。
・・・
日本の外にいますと、むしろ日本の状況がよくわかるんだけど、日本がアメリカの攻撃を受けて、いま、やろうとしていることは、私に言わせれば、グローバルじゃないんですよ。」
五木「そのとおり。グローバルというより、いまは、アメリカン・スタンダードのブルドーザーで押しつぶされているみたいな現状なんですね。」