環境問題が経済・技術を発展させる

「この国の未来へ」(佐和隆光著、ちくま新書)を読みました。

 【本書は、地球環境問題をめぐる、私の一般読者向け著作の2冊目である。一冊目は、京都会議の直前に刊行された『地球温暖化を防ぐ』(岩波新書)である。二冊目の本書は、・・・「環境の世紀」といわれる21世紀を見すえ、持続可能で「豊か」な社会についての私見を披露したものである。】という「あとがき」に惹かれて読んだのですが、結論を要約すると、

1. 環境問題に関しては、「予防原則」を積極的に取り入れるべきだ。

予防原則とは、【なんらかの化学物質が、身体や環境に対する重大な有害性、とりわけ非可逆的な有害性を有すると判断できる材料があったとすれば、たとえ科学的知見が不十分であっても、(たとえば、喫煙と肺がんの関係についてすら、統計的に「有意」な確固たる結論はいまだに得られていない。)「もしかしたら」という最悪の事態に備えるために、因果関係が立証されていなくとも、予防的な措置または規制を講じることが望ましい、とする政策決定のあり方を意味する。】 

2. 環境制約が21世紀の経済発展の原動力。

 技術の発展は、何かの不足や制約を解決したいという欲求がもたらしたと述べた後、

 【これからの技術革新のバネとして働く「制約」と「不足」は何なのかというと、次の二つが挙げられる。ひとつは不老長寿と無病息災への尽きせぬ願望。もう一つは環境制約。

 人口400万あまりのシンガポール人の大部分が、マレー人と中国人の混血であることからして、シンガポールで治験にとおった薬品はアジヤのほぼ全域で治験に合格し、シンガポールは薬品の大輸出国になることができることに着目したシンガポール政府は「医療立国」を唱えるようになった。薬品のみならず、医療機器とすぐれた医療サービスの輸出により、シンガポール経済を成り立たせようとするのである。】

 【私見によれば、「環境の世紀」ということには、次のような二つの意味がある。ひとつは、地球環境問題がますます深刻化するであろうこと。もうひとつは、環境制約が技術革新を駆動する力として作用するであろうこと。】

3. 京都システム(京都議定書を実効あらしめる)実現のために。

 【第一に、アメリカの参加(京都議定書への)を実現させること。そのために、長期的な技術開発へ向けての、国際協力体制を具体化する。第二に、参加のインセンテイブをしつらえたうえで、途上国の参加を促すこと。】

 補足説明しますと、最大のエネルギー消費国アメリカが参加しないでは実効が上らない。アメリカが京都議定書に反対している理由(表向き?)は、「温暖化対策には抜本的な技術開発が必要で、それには長期の取り組みが必要。京都議定書のように5〜6年先の温暖化ガス排出量を規制しても無意味だ」。実際、長期的な技術開発は必要です。

また、【「京都議定書は発展途上諸国に義務を課していない」というのは誤解である。「排出削減の機会を提供する義務が途上諸国に課せられている」、と解すべきなのである。】従ってたとえば、先進国が途上国に工場進出する場合、最新技術で、温暖化ガスの排出の低減をすれば先進国の低減量にカウントするなど、排出権取引のしくみが必要、と筆者はいう。


 最後に、以上の本論より、私には、次の余談の方が面白かった。

(1)【日本という国は十分「豊か」ではあるが、環境保全に熱心になれるほど生活にゆとりがない。】と筆者は言うのだが、フランスの社会科学者ジャン・ボードリヤールは「日本という国が豊かなのは日本人が貧しいからだ」と語ったそうだ。(1995年)

 一人当たりGDPで、日本は1987年世界一(人口千万人以上の国で)になったが、年間労働時間においても、通勤時間の長さにおいても、休暇の長さにおいても、貧しい生活を受容しているという意味と思います。

(2) 【アメリカの某大学での話だが、50歳を過ぎても准教授のままという同僚がいた。

自分は論文の数を増やすことにやっきになるつもりはさらさらない。大学教員の最優先すべき任務は教育である。自分は教育者としての重責はちゃんとこなしている。余った時間を、論文をかくことに費やす代わりに、朝食前にジョギングし、昼飯前にプールで一泳ぎする。健康第一の生活こそが、自分にとって生きがいなのだ。・・・大学での地位は低いし、俸給も安い。・・・すべて自分の「選択」の結果なのである。】

  こういう価値観の人々のなかで、成果主義は成り立つと、私は思いました。

【生粋の成果主義は、ここ日本では、必ずしも有効に機能しない。成果が評価されなかった人々は、・・怨念を抱き、やる気をなくす可能性が高い。日本型雇用慣行は・・、日本人の多数派にとって快適な慣行として選択された慣行なのである。】