日本のいちばん長い夏

 なんとか積ん読しておいた本を片付けようと、読書三昧の年末です。
「日本のいちばん長い夏」(文春新書、半藤一利編)は、1963年6月、文芸春秋社終戦の生き証人とも言うべき30人、(内吉田元首相と町村金五北海道知事(当時、現官房長官の父)の二人は紙面参加)を集めて行った大座談会(文芸春秋63年8月号に掲載)を主に編纂したものです。
 読んで、一番印象的なのは、久間元防衛相の「しょうがない」発言に関連する記述(巻末の対談)でした。
【「ポツダム宣言を「黙殺」したがために、それが原爆を使った理由にされるし、ソ連の侵攻の理由にされてしまいました。」
「それはアメリカの言い訳であると同時に、先の久間章生防衛大臣の発言までつながっています。アメリカによる原爆投下は、ソ連の南下を差し止め、北海道占領を阻止するために「しゃうがなかった」という。」
ポツダム宣言が黙殺されたから落としたと言っているけれど、実際にはその前に決定している。」
「ええ、ワシントン時間で7月24日夜、「第20空軍第509爆撃隊は、1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許す限り、なるべく速やかに、最初の特殊爆弾を次の目標の一つに投下せよ。(目標)広島、小倉、新潟および長崎」という命令書がポツダムに打電されています。そして、翌25日朝まだき、ポツダムより「陸軍長官はグローブス命令書を承認す」という至急報がワシントンのペンタゴンに届きます。」
・・・アメリカとしては原爆の使用が、非戦闘員を攻撃してはいけないという国際法違反になるなんてことは百も承知の上で。」
ソ連だって、4月の段階ですでに侵攻するのは決定済みで、どんどん極東に兵力を運んできています。」
「2月のヤルタ会談で協定したのはドイツ降伏の3ヶ月後に侵攻するということでした。ということは、ドイツ降伏は5月7日ですから、8月の7日。実際には9日ですからほぼ協定どおりの行動となりました。
 けれど仔細に経緯を見てみると、ソ連の日本への攻撃開始は、当初は8月22日から25日の間に国境を突破する予定となっていました。」
 原爆実験成功の情報が入って、更に広島投下で、ソ連は遮二無二予定を早めたそうです。
「ですから、久間発言みたいに、ソ連の南下と北海道占領を留めるために原爆をアメリカが落としたというのは、まったくの認識違いなんですね。」
「北海道は占領されたかもしれないと久間さんは言ったわけですが、ところが北海道を占領する力など、昭和20年8月の時点で、ソ連にはないんです。上陸用舟艇を一隻も用意できていなかった。」
 8月16日、スターリントルーマンに宛てて手紙を出した。北海道をを半分くれという手紙でした。トルーマンがこれを蹴ったので、スターリンは何を考えたかというと、シベリヤ抑留。
 ソ連極東軍総司令官ワシレンスキー大将に極秘の命令「捕虜に関する実施要綱」を発したのが8月24日。いちばん大事なところは「旧日本軍の軍事捕虜のうちから、極東とシベリヤの気象条件のなかで労働可能な身体強健な捕虜を、最低50万人選抜せよ」
 防衛大臣歴史認識はいかにもお粗末、と編者は嘆いていました。