川鉄千葉のこんな事例もあった

 ここ数回、野口著『モノづくり幻想が日本経済をダメにする』から引用していましたが、やっと読み終わりました。
エピソードの引用が巧みで、面白い本でした。タイトルが一寸何のこと?と思わせますが、筆者の主張を、これもエピソードで説明すると、
 【半世紀前の1950年、川崎製鉄(現JFEスチール)が千葉に製鉄所を建設すると発表した時、多くの人が、その計画を無謀で常識はずれのものと考えた。
 第一に、当時の日本の製造業は繊維や雑貨などの軽工業が中心であり、大規模な新鋭製鉄所を造っても稼動率は確保できないと考えられていた。この計画に反対した日銀の一万田尚登総裁が「製鉄所にペンペン草を生やしてみせる」と言った・・・】これは有名な話です。
 【第二に、日本には製鉄用の良質な石炭も鉄鉱石も産出しないから、製鉄業が日本に適した産業であるとも考えられていなかった。・・・製鉄業が日本のリーデイング・インダストリーになると考えた人は、ほとんどいなかった。
 第三に、製鉄所の建設予定地が千葉とされたのも、常識はずれだった。その当時の人びとは、千葉の海岸を漁場か海水浴場としてしか認識できなかった。事実、八幡、室蘭、釜石に見られるように、製鉄所は炭坑か鉄鉱石産出地の近くに立地していた。鉄を1トン生産するには原料が6トン必要と言われていたから、原料の輸送コストを考えれば、「製鉄所を炭鉱か鉄鉱石産出地の近くに造る」というのが常識だった。】
 【しかし、右の3点のいずれもが、川崎千葉工場の妨げにはならなかった。それどころか、この製鉄所の成功を起爆剤として、日本の高度経済成長が始まったのである。
 まず、第三点を見よう。確かに千葉は炭鉱からも鉄鉱石産出地からも遠い。しかし、これらの原料は海外から輸入すればよい。船舶による輸送はタダではないが、陸上輸送に比べればはるかにコストは低い。しかも、技術進歩で輸送船の性能は向上していた。・・・】
【その後の日本の高度経済成長は、千葉工場のモデルに従って、四日市の石油コンビナートや瀬戸内工業地帯など臨海工業地帯を建設することで発展した。・・・
 そうなれば、軽工業が日本の比較優位ということにはならない。・・第一点として述べたことも、「経済構造が変革する」というダイナミックな文脈で考えれば正しいといえないのである。】
【今振り返れば、重要なポイントは次のことだ。第一に、炭鉱や鉄鉱石産出地との物理的な「距離」は、さほど重要ではない。第二に原材料が日本に産出しないことも、重工業化の妨げにはならない。・・】
 【この二つとも革新的な考えだ。日本は、古典的な産業立地論の通念が誤りであることを、見事に実証してみせたのである。「日本の高度成長は、先進国をモデルとした『追いつけ追い越せ』型の経済成長であった」と言われる。そうした側面があることは否定できない。しかし、少なくとも重工業化のパターンについて言えば、当時の世界の常識を破っている。】
 当時、海上輸送によって物流費用が劇的に低下した技術革新を利用して、軽工業から重工業に「構造改革」を実現した日本が、今、IT技術の発展で情報流通コストが劇的に低下(ほとんどゼロ)した技術革新を利用して、日本の「構造改革」を何故果たしえないのか。
 【じつは、ここ10年程度の日本にとって最重要の課題は、産業構造を従来の「モノづくり中心」の構造からシフトさせ、、「中国ではできない高度な経済活動を行えるような構造にする」ことだった。これこそが、最も必要とされる「構造改革」だったのである。】
 と、野口さんは嘆くのです。