『理性の限界』 

 ノーベル物理学賞の日本人受賞が話題になっています。南部博士は「CP対象性の破れ」の発見、益川・小林教授は、その対象性の破れは「クオークが3個でなく6個以上ないといけない」と、理論で説明したという。

 と、新聞やニュースで聞いたが、何のことか全然分からない。おそらく、TVのアナウンサーも、記事を書いた新聞記者も、分からないのと違います?

「ビッグバンで物質と反物質が出来た時、物質と反物質がぶつかると光になって消滅するが、対象性に破れがあって、物質の方がやや多かったので、今日の宇宙が出来た」と、解説を聞くと、ますます分からない。

 ビッグバンは137億年前の出来事だと言う。見ていた人はいないと思うが、どうしてそんなことが分かるのだろう?

 こう考えていて、物理学者の「分かる」と、われわれ市井人の「分かる」とは違うのでは?と思うに至りました。

 以下、小生の「分かるについての考察」です。

 人間の頭脳は、どういう仕組みで考えたり分かったりするのか。

生まれて以来の数々の経験を記憶として蓄えていて、問題にぶつかった時、これは過去の経験のどれを使った時に解決できそうか、記憶を検索します。これが、人間の「考える」の基本的仕組みで、ぴったりの記憶を検索出来た時「分かった」となるのです。

 ですから基本的に、過去に一切経験のなかったことは「分からない」、のです。

 量子論では、ミクロの物質は通常は「波」として存在しそれが観測される瞬間に「粒子」になるといいます。(観測すると粒子になる。観測してないと粒子が存在しない。)

 ところが、人間の感知する世界では、ある時は波である時は粒子などという存在はありません。ですから、そんなものは経験できない。従って、素粒子は分からない。素粒子は人間の分かる能力を超えているのです。

 たとえば、顕微鏡には「分解能」という限界、それ以下の小さいものは見えないという限界があります。人間の「分かる能力」に限界があっても不思議ではない。

 有名な話なので、ご存知の方も多いと思いますが、かのアインシュタインは「量子論」が分からなかったと言います。

 アインシュタインが友人の物理学者に向かって、「君は本当に、君が見ているときにしか月が存在しないと思っているのかね」と言った有名なエピソードがあります。

 もちろん月はマクロの物質ですが、結局はミクロの物質が集まってできているわけですから、これに量子論の考え方を適用した皮肉を言ったのです。

 高名な物理学者・ファインマンは「量子論を本当に理解している人など、一人もいない」とまで言い切っています。量子論の研究者は決して「なぜこうなっているのか」と考えてはならない。なぜなら、永遠に逃げ出せない袋小路に迷い込んでしまうからだというのが、ファインマンの残した言葉です。

 では、物理学者は、どうして素粒子を分かるのか?

彼らは、人間の体感する存在として、素粒子を考えるのでなく、「数学上の現象として、素粒子を考えている」。肉眼で見られない小さなものを顕微鏡で見るように、体感できない素粒子を数学で見ている。

というのが、私の結論。独断と偏見です。

 以上の独断と偏見は、高橋昌一郎著『理性の限界』(講談社現代新書、08年7月刊)第2章を参考にしました(この本には「数学の限界」についても載っています)。