司馬遼太郎と三つの戦争(続)

 次が太平洋戦争。日露戦争の勝利から太平洋線の敗北まで、ご存知のようにわずか40年です。
 『とりわけ、ノモンハン事件は深刻です。
 これは国家間の戦争にまでは拡大しませんでしたが、戦争が示す以上のものを日本・日本人に残しました。ダメな日本・日本人の貴重な歴史教訓となった。
ノモンハン事件の敗北は当時、なんの教訓も残しませんでした。それどころか、ノモンハンの悲劇を演出した服部、辻両参謀がその後栄転し、参謀本部作戦課にあって日米開戦を推進したぐらいなのです。日露戦争では、旅順の悲劇の実質的な責任者、第3軍の伊地知幸介参謀長も、戦後に男爵になっています。』
『司馬さんによれば、伊地知が男爵にならなければ、乃木さんも伯爵になれないし、・・山県有朋も公爵にのぼれないのだそうです。旅順の死者、ノモンハンの死者を思うと、言葉もありません。』
司馬さんは、体験した昭和前期の日本について、これは軍人によって占領された「異胎」の国なのだと。・・・日本という国は、本当は実は素晴らしい国なんだと考えた。
それが、「坂の上の雲」の思想でした。
3. 晩年期
【晩年の司馬さんの鬱屈は、深刻なものだったと思います。
昭和前期の日本が日本歴史の中で突然変異の時代だとして、本当は素晴らしい民族なんだと見たことが、間違いだったのではないかという思いです。
・ ・・やはり歴史は連続的なもので断絶などはないのだろうか。
 陸軍、海軍が支配した昭和初期と、銀行や大蔵省の一連の不祥事が続発した昭和後期から平成の時代と、どこが違うのかという思いです。】

 近年の自民党政権の政治を見るとき、私は尚その感を強くします。

余話として
 読んでいて、靖国問題の別の視点に気付きました。
 靖国神社には、大村益次郎銅像が建っています。彼が靖国神社の前身、東京招魂社を作ったからです。招魂社は、死者を慰霊するのに神仏儒いずれにもよらない超宗教の形式をとりました。前代未聞のことでした。そして、招魂社を諸藩から超越させました。諸藩の死者を一堂に集め、国家が祈念する形をとった。つまり、新政府よりも藩が大事と、ほとんどの人が考えていた時代に、民の忠誠の対象を藩から国家にするための装置でした。
 明治12年、招魂社は靖国神社になり、神道で祭祀されることになり、大村の理想は崩れましたが、今日の靖国問題は、大村の視点に戻って考究するのも有益な視点です。