風流武辺 

広島に縮景園という名園がある。名古屋城に二の丸庭園という庭園があります。二つの庭園の共通点は?日本庭園に詳しい方はご存知です。

 二つともに、上田宗箇という作庭家の作です。彼は、戦国時代の武将ですが、晩年、作庭家として活躍し、まだ茶道において上田宋箇流を創めた。 

宗箇について知りたいと思い、彼を主人公とする小説を調べてみました。

津本 陽『風流武辺』が、ありました。1998年〜99年に、週刊朝日に連載された小説です。早速、愛知県図書館で借りて読みましたので、以下その紹介です。

 小説の最後は、こうです。

 【宗箇は生前、海を隔て厳島の見える大野串山の小高い頂に登ったとき、傍に控える家来に命じていた。

「わしが死んだときは、この場で荼毘にいたすがよい」

「わしを荼毘にいたせしのち、この槌にて骨を粉といたし、早瀬の海に沈むべし」】
 彼は、散骨をしたのです。

ですから彼の墓(勿論後世の人が作ったものでしょう)は、瀬戸内海に望む地にありますが、そこには遺骨は埋められているわけではない。何もない、ただ印として松の木が植えられていただけの墓である。

http://www.mmjp.or.jp/askanet/anecdoteofhistoricsite_story08a.htm

彼の生涯を小説の「あとがき」で拾うと、

【秀吉の室おねの従妹をめとり、文禄3年には豊臣姓を受け、従五位下主水正に叙任。

秀吉の没後、関が原役では西軍に属し、所領を失った。

 宗箇が再び世に出たのは、茶道の名声によるものだった。戦国の侍は、戦場で突然の死を迎える覚悟をきめておく必要がある。生は束の間という無常観と、いやでも向き合わねばならない。

 その場合、漁色に走る者と、参禅、茶道の道に沈潜して、人生の浮生の相をうけいけようとする者がいる。宗箇は後者の道を撰んだ。古田織部正と茶道の係わりがが深く、利休にも教わるところが多かった宗箇は、徳川秀忠と茶道の縁があった。

 紀州浅野幸長に一万石で迎えられ、大阪夏の陣では塙団右衛門を倒す功名をあげた。

 浅野家が芸州へ移封ののち、慶安3年4月、長逝、享年88である。墓はつくらず、骨は粉にして海に流した。

 戦国を生き抜いた武将の諦念が、にじみ出ているような生涯であった。

物語は、戦国武将の「生きる哲学」を描いていました。