日本が震源地?

『スラム化する日本経済』(浜矩子著、講談社α新書、09年3月刊)を読みました。

「グローバル恐慌(岩波新書))」の姉妹編とのこと、本屋で手に取ってみたら、「日本が真の震源地」という章が目に付き、読んでみようと買った次第です。以下、読後感です。

リーマン・ショックが世界を震撼させた時点では、日本国内の反応は総じて楽観的なものだった。・・・グローバル恐慌発生に至る一連の展開は、要するにアメリカの金融システムにおける固有の問題がもたらしたものだ。日本はそのとばっちりを受けているに過ぎない。日本は震源地から遠い。日本の金融市場そのものに、何か問題があるわけではない。したがって影響は軽微に留まる。・・・サブプライムローン証券化商品にしても、日本の金融機関の保有高は限られていることだし、万事、恐るるに足らずだ・・】

しかし、と著者は言う。

【むしろ、震源地は日本だという言い方さえできる。

なぜなら、金融大膨張から金融大破綻につながる今回の展開は、元をたどれば日本の長引く超低金利がもたらしたものだと考えるべき面があるからだ。ゼロ金利政策が続き、政策としてはゼロ金利解除となったあとも、なお、金利水準は限りなくゼロに近い状態に張り付いている。正常化が一向に進まない。】

【日本の国内で金利を稼げないジャパンマネーが世界に溢れ出し、世界的にもカネ余りと低金利を醸成する展開になった。そのような環境の中でハイリターンを求める行動が、ハイリスクを内包する金融商品の数々を生み出し、世界にグローバル恐慌の種をばらまいた。それがことの真相ではないかと思う。】

と、著者は冒頭に述べる。この考え方。私もかねてから、そう思っていました。

私の考えは、『日本がバブル崩壊後の不況克服のため、金利を引き下げ、金融を緩和した。要するに、おカネをだぶつかせた。カネがだぶつけば、物価が上がることで、カネとモノのバランスが取れるのが、従来の経済でした。ところが、グローバル化経済では、モノの値段が上がろうとすると、外国から値段の安いモノがいくらでも入ってくる。だから物価が上がらない。そのため、モノとカネのバランスが取れない。つまりカネが余る。あまったカネは、お金持ちのところに集まり、お金持ちはそれを投資に向けようとするが、それでもカネが余ると、投機に回る(原油に投機資金が回るとガソリンが急上昇する)。魚心あれば水心で、金融商品を提供する側は、サブプライムローン関連商品などの投機的商品を大々的に売り出した。』

この考えは、浜さんの述べていることと、同じでしょう。しかし、私が期待していたのは、その論理を、(定性的でなく)定量的に説明してくれることでしたが、残念なことに、そこまでは筆が及んでいませんでした。

グローバル経済下では、例えば、不況には金融を緩和すれば良いというような、景気対策を講じても必ずしも効果が出ない。この意味で、モノやカネが国境を越える現在は、国家の政策の自由度が減少し、ボーダーレス時代を志向しているかに見える。ところが、政府系ファンドの登場は、国家が地球経済を股にかける資本家として、存在感を強めている。

「国家版のハゲタカ」たちが、銀行や大手企業の株主化する。しかも、そのなかでもっとも金持ちなのが、共産党一党独裁下の中国なのである。

彼ら(政府系ファンド)が、ここまでアグレッシブな投資家として存在感を強め、「日本も真似をしたほうがいいのか」などと思わせるような派手さを持つに至ったことについては、金融のグローバル化、ここ数年の地球的カネ余りに伴う資金運用難、そして、ドルが紙切れになることへの恐怖心が影響してきたと考えられる。

いずれにしても、かつて資本主義は、社会保障制度や労働組合制度を生み出すことで、弱肉強食の社会システムになることを免れました。それによって、計画経済システムとの競争に打ち勝ってきました。それが、ソ連崩壊後、グローバル化の名のもとで、富むものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなる原始資本主義に復元してしまった。人類は新しい社会システムを生み出さないといけない。それが百年に一度と言われる不況の背景にあることを、考えさせられる本です。