経済学の考え方

「経済学の考え方」(宇沢弘文著、岩波新書、89年1月刊)を読みました。
アダム・スミスの項に、こんな文章がありました。
【スミスの『道徳感情論』は、・・・同感という概念を導入し、人間性の本質を明らかにしようとした。人間性のもっとも基本的な表現は、人々が生き、喜び、悲しむというすぐれて人間的な感情であって、この人間的な感情を素直に自由に表現することが出来るような社会が新しい市民社会の基本原理でなければならないと考えた。】
【一人一人の市民が、人間的な感情を素直に、自由に表現し、生活を享受することができるような社会、それが新しい市民社会の理念であるが、そのような社会を形成し、維持するためには、経済的な面で十分に豊かになっていなければならない。健康で文化的な生活を営むことが可能になるような物質的生産の基盤がつくられていなければならないというのがスムスの考え方だった。『国富論』は、このような意味で、『道徳感情論』を基礎において、新しい市民社会の経済原理を明らかにしようという意図を持って書かれた】
単なる経済を論じた書物でなく、「人間いかにあるべきか論」を基礎に置いたあるべき経済論であって、そこに経済学の古典としての価値があるのだと述べている。
【『国富論』は200年以上も前にかかれた書物でありながら、経済学ののなかの古典として、現在に至るまで、生き生きとしてその声明を保ち、力強い脈動を私たちに伝えている。たしかに理論的な枠組みという点からも、また実証的分析、歴史的考察についても、アダム・スミスが『国富論』のなかで述べていることについて、不十分ないし不正確なことがすくなくない。また、スミスの市民社会ないしは市場経済に対する考え方も必ずしも現代的状況に適合するものではない。しかし、スミ『国富論』のなかで取り上げた問題と、それに対する考え方とは、経済学のあるべき姿を鮮明に、しかも含蓄ゆたかに提示したものであって、経済学のプロトタイプとしての意味を現在にいたるまでもちつづけている。

筆者は、またこうも語っている。
新古典派の考え方を国際貿易の分野に適用するとき、いわゆる自由貿易の命題が得られる。国際間の経済的取引について、関税、非関税障壁を撤廃して、貿易の自由化をおこなったときに、各国の経済厚生がすべて高められるという命題である。周知のように、この自由貿易の命題は政策的に大きな影響をもっている。たとえば第二次世界大戦後の期間を通じて、国際経済秩序の柱ともいうべき役割を果たしたGATT協定は、この命題を理念的基礎に置いてつくられたものであった。
自由貿易命題も、新古典派理論の前提条件、そのなかでもとくに生産手段の私有制、生産手段の可塑性がみたされていないときには、自由貿易の命題は妥当しない。貿易の自由化によって、経済厚生が著しく低下することもまた例外的ではない。同じような問題は資本自由化の命題についても妥当する。
】(さてここで、経済厚生は何によって測っているのだろう?)
ある生産要素が可塑的であるというのは、その生産要素が特定の用途に固定されることなく、その時々の条件に対応して、一つの用途から他の用途に自由に転用することが可能であって、そのために特に費用をかけることもなく、また時間(リードタイム)も必要としないようなことを指す。
 以下の指摘はまことにもっともです。
『生産過程および生産要素が固定的であるときには、生産設備はひとたび建設されると、たとえ、価格、需要などの市場条件が大きく変わっても、その形態を変えることが困難となってくる。機械設備だけでなく、熟練的な労働などの生産要素についても、このような固定性がみられるようになり、一つの生産組織全体についても、固定的となってゆく。(ソーステイン・ヴェブレン1857―1929)』
経済理論に欠陥があるとすれば、それは、理論前提が非論理的であるか、あるいは現実的妥当性を欠くからであって、その前提の上に組み立てられた論理的演繹の過程についてではない。
最後に、20年前に書かれた本書ではあるが、次の記述は日本社会の現実を衝いている。
ケインズの最後の著書『戦費調達論』で強調されているように、所得分配の不平等化が進み、非自発的失業の大量発生が、長期間にわたってつづくとき、資本主義は、一つの制度として存続することはきわめて困難になるとケインズは考えたのである。

国民総生産、実質国民所得、輸出入の額、工業的技術水準の高さなどという点からみた経済的パフォーマンスのすばらしさと、人々の営む生活の実質的内容の貧しさ、文化的水準の低さとの対照が日本の経済社会ほど目立つ国は世界にあまりないのではなかろうか。』