世界は分けてもわからない

『世界は分けてもわからない』‘福岡伸一著、講談社新書09年7月刊)は面白い本でした。『本』の08年6月〜09年7月に連載されたエッセイです。
同書から面白い話題を一つ。
ソルビン酸」ってご存知でしょうか?コンビニのサンドイッチなどに含まれている食品防腐剤です。
ソルビン酸にはーCOOHという角がついています。微生物の栄養素には、○○酸と名のつくもの沢山あります。乳酸、酢酸、酪酸クエン酸、リンゴ酸、ピルビン酸等々、いずれの酸もーCOOHがあります。これらの酸、食品に含まれる炭水化物やタンパク質、脂肪が代謝されるプロセスで現れ、更に微生物の体内で代謝され彼らのエネルギー源になる。
代謝とは化学反応のことで、細胞内部で行われる科学反応には、酵素という触媒が関与する。ひとつの反応はひとつの酵素が担当し、たとえば、乳酸脱水素酵素は、乳酸をピルビン酸に変換する。
細胞内に普通は存在しないソルビン酸が存在すると、乳酸脱水素酵素は(−COOHのため)乳酸と間違えてソルビン酸を捕まえてしまう。その段階で乳酸→ピルビン酸の反応がとまってしまう。そのため微生物の食料がなくなって、腐敗の進行が止まる。
さて、そのソルビン酸は人間に害はないのか?それを確認する実験は二種類あります。
一つは、ラットやマウスなどの実験動物を用いて、毒性を確かめる。
ラットは体重200gぐらい。そのラットにソルビン酸を少しずつ増やしながら食べさせる。10匹のラットそれぞれに、ソルビン酸を1.47g食べさせた時点で、5匹が死亡したとする。この量を50%致死量という。50%致死量は体重に比例する。
動物実験がそのまま人間に当てはまるか?ソルビン酸のような水に溶けやすい化学物質の毒性の場合はおおよそ当てはまると科学者は考えている。ラットとヒトは同じ哺乳類で、栄養素の代謝のしくみや毒物の解毒の仕方がほぼ同じだからです。
ヒトの体重を50kgとすると、ソルビン酸のヒトに対する50%致死量は、およそ368gになる。そこで、ソルビン酸は安全だと判断するのです。
たとえば368gのソルビン酸を、ソルビン酸含有率0.3%のチーズで摂るには、チーズ123kg食べなければならないからです。(水に溶けにくく油に溶けやすい物質や重金属については慢性の毒性の検査が必要だが実験の原理は同じ)。
もう一つは簡単に言うと、シャーレの中でヒトの細胞を培養して、そこにソルビン酸の水溶液をたらし、一定時間後、顕微鏡でヒト細胞の変化を調べるという方法です。
現在のところ、この方法で、ソルビン酸が有害だというデータは出ていないといいます。
ここまでの話は、何の変哲もない話ですが、その後の話が面白い。
たしかにソルビン酸は微生物に対しては毒として作用するが、ヒトの細胞には毒にはならない。
しかし、ヒトの細胞に無毒であるということは、ヒトに無毒だといえるか?
実は、ヒトはヒトだけで生きているわけではない。全身の細胞は約60兆といわれるが、腸内に住む細菌は120〜180兆だそうです。ヒトは腸内細菌と共生しているのです。その腸内細菌がソルビン酸から害を受ける時、ヒトに害はないのだろうか?
腸内細菌は人間に何をもたらしているか。それは安定した消化器官内環境の提供です。腸内細菌群は消化管において一種のバリアとして働き、危険な外来微生物の増殖や侵入を防ぎ、日常的な整腸作用を行っている。
私たちの大便は、だから単に消化しきれなかった食物の残りかすではない。大便の大半は腸内細菌の死骸と彼らが巣くっていた消化管上皮細胞の剥落物、そして私たち自身の身体の分解産物の混合体です。

たとえば風邪を引いたとき私たちは抗生物質を飲みます。抗生物質は微生物に対する強力な代謝阻害剤です。これによって感染症をもたらす微生物を制圧します。しかし抗生物質を服用するとその不可避的な副作用として、便秘や下痢が起こることが知られています。それは抗生物質を飲むと、まず第一に消化管内で腸内細菌叢に制圧的に作用し、コロニーが乱され整腸作用が変調するため。同じことがソルビン酸によっても起こる可能性がある。ソルビン酸抗生物質も微生物に対する代謝阻害剤だからです。ソルビン酸抗生物質に比べるとずっと弱めの阻害剤ですが・・・
しかし一過性の抗生物質とは異なり、ソルビン酸は弱いとはいえ長期間、継続的に摂取するタイプの化学物質です。弱いながらも、長期間、日常的に腸内細菌叢に与える影響についてはまったく解明されてはいません。それに、ソルビン酸が広範囲に加工食品に添加され始めてから、それほど長い年月が経過されているわけではない。

だからコンビニのサンドイッチを買ってはいけないと主張しているのではありません。ソルビン酸は、いつでもどこでも安価なサンドイッチが食べられる便利さと引き換えに、最低限度の必要悪として利用されている。そしてソルビン酸の健康に対するリスクはそれほど大きいものとはいえない。ですから、リスクとベネフィットのバランスを納得した上で、その便利さを教授するという選択は成り立ちます。

ヒトの腸内で起きている現象を理解しようとする時、腸内細菌の働きと分けて腸の細胞の働きを調べてもわからない。『世界は分けてもわからない』、書名の所以です。