ノモンハン戦争

岩波新書の『ノモンハン戦争』(田中克彦著、09年6月刊)を読みました。
ノモンハン戦争そのものの記述よりも、戦争の背後にあったモンゴル、ソ連満州国(日本)の当時の事情の解説に重点を置いた本です。ソ連の大粛清がモンゴルでも行われたこと。モンゴル人が満州国の成立をソ連の圧制のくびきから逃れるきっかけにならないかと注目していたこと。しかし日本もソ連と同じだったこと。国境紛争の詳細。戦争については、日本軍戦士の残した日記、辻参謀の蛮行等の記述です。
以下、同書から。
(粛清を逃れて)最初にモンゴルから亡命してきたのは、在モンゴル・ソヴィエト駐留軍参謀証左、ヤルマルフランツヴィッチ・フロントであった。1900年生まれ、フィンランド系の、このレニングラード士官学校出の秀才は、ウランバートル東南400kmほどのところにあるサインシャンダの基地から自動車を運転し、内モンゴルとの国境ザミーン・ウンデから脱出して5月29日に満州国にたどり着いた。「素晴らしい頭脳と洞察力」をもっていた彼は、関東軍に、予想される対ソ戦で留意すべきことを教えたが、関東軍の飲み込みの悪さにうんざりしていたという。関東軍の完敗を見越したかれは、敗戦の直前、関東軍の助力を得て満州国を脱出したが、そのゆくえは「杳としてこれを知るものがない」

「20世紀のモンゴル国の歴史上、最大のハルハ河の戦闘(ノモンハン事変)でさえも、モンゴル人民革命軍は237人が殺され、32人が行方不明となっただけだった。ところがこの戦闘に先立つ1年半の間に「国家反逆罪」有罪とされた者はその117倍に、処刑された者は88倍の多数に上った。特別査問委員会の50回にのぼる会議だけをとって見ても、19895人を処刑したということは、毎日398人を処刑したことになる。(現代史家S・バートル氏証言)

辻政信は、英軍の追及を逃れてタイなどに身を潜め、1948年日本に帰国した後、『ノモンハン』『潜行30年』『ガダルカナル』等ベストセラーを書き、52年、故郷の石川県1区から衆議院議員として立候補して最高点の票を得て当選し、55年には、ソ連と中国から招かれた38人お国会議員の一人として訪問団に加わっている。
辻は、自らを「逃避潜行した卑怯者」として、「その罪の万一をも償う道は、世界に魁けて作られた戦争放棄憲法を守り抜くために・・・余生を捧げる」とその著書に書いた。
そして代議士になるや否や、「憲法を改めて祖国の防衛は国民の崇高な義務であることを明らかに」すべきであると訴えるようになった。
辻政信―――この人は並でない功名心と自己陶酔的な冒険心を満足させるために、せいいっぱい軍隊を利用した。そうして戦争が終わって軍隊がなくなると、日本を利用し、日本を食いものにして生きてきたのである。

以下はあとがきです。
1969年にウランバートルを訪れた際、私はそこで戦勝30周年が祝われているのを観て、初めてこの戦争について考えるようになった。そのことを『世界』に書いたのを司馬さんは注目されていたのであろう。そして大阪から近い岡山に私が移ってきた1972年、夏の暑い日に、中年の人が来て、じつは司馬遼太郎先生の使いのものだが、先生があなたからぜひノモンハンについてうかがってこいとおっしゃって、こうしてきておりますと言って、私の前にテープレコーダーのマイクを置いたのである。
私は即座に取材をお断りした。(中略)
今思う。今だったら、この本を持って晴れ晴れと司馬さんの前に現れて、これまでの無礼を詫びた上で、ノモンハンはこんなだったんですよと、ちょっと自慢して話が出来たであろうのにと。