「日本銀行は信用できるか」

日本銀行は信用できるか」(岩田規紀久男著、講談社現代新書、09年8月刊)という本を読みました。甚だ挑戦的な本です。

 日銀の政策を決定するのは、日本銀行政策委員会である。委員会のメンバーは、総裁、2名の副総裁、それに6名の審議委員、計9名です。

 新日銀法によれば、(委員は)「経済または金融に関して高い識見を有する者」となっているが、現実はそうした基準から選出されているとは言いがたい。と、第一章から噛み付いている。審議委員が「財界や学会の天下り先」になっているとまで酷評している。

 【中原伸之氏が審議委員であった時期を除くと、議論が分かれてもおかしくないような状況でも、総裁提案(日銀企画局が作成)がほぼ全会一致で賛成されてきた。日銀企画局が金融政策をリードしてきた疑いがある。】

 日銀を退職した方から漏れ聞くところによると、その企画局の人で、後に日銀理事にまで上り詰めた人の中には、「IS曲線は分かったが、LM曲線は分からない」といった「つわもの」もいたという。ちなみにIS曲線とLM曲線とは大学の経済学部の1年生か2年生の学生の時に学ぶ金融政策の効果を知るための基本的な分析手法である。

 (もちろん)【日銀は失敗ばかりしているわけではなく、成功した時代もあった。それは、狂乱物価が収束した70年代後半から、80年代後半にバブルが発生するまでの期間である。

 日銀は1970年代初めの「狂乱物価」を引き起こした金融政策に懲りて、貨幣増加率を次第に引き下げ、1980年代前半には8%程度で安定させる金融政策を採用した(これを貨幣残高重視の金融政策という。)】

 日銀の金融政策のパフォーマンスは抜群だった。すなわち、インフレ率は2%台に向かって安定化し、失業率はやや上昇したものの2%台後半で落ち着いていた。経済成長率も平均3.8%で安定していた。

 しかし、1987年以降、貨幣残高重視の金融政策(マネタリー・ターゲッテイング)に変化が見られ、貨幣残高の増加は乱高下するようになった。86年は8.7%にとどまっていた貨幣増加率は、87年から90年にかけて10%台前半に急上昇した。しかし、91年には、一転3.6%に急降下し、92年にはさらに0.6%へと低下した。

 なぜ日銀はそれまで成功していた貨幣増加率の安定化政策をあっさり捨ててしまったのか?

 89年5月以降、日銀が金融引締め政策に転換した公式の理由はインフレの防止であった。しかし、当時、日銀が入手できた消費者物価指数のデータは、せいぜい、89年3月以前だが、その当時インフレ率は1%以下で安定していた。

 このときの金融引締め政策の真の目的は「地価バブルつぶし」で、円安防止が第二の目的だったのではないかと推測している。

 1985年のプラザ合意以降、実際の円・ドルレートは国内企業物価で測った購買力平価よりも円安になりそうになると、円高に反転している。国内企業物価で測った円とドルの購買力平価とは、日米の国内企業物価を等しくするような円・ドルレートのことである。(「円の足かせ仮説」安達誠司氏)

「円の足かけ仮説」が妥当とすると、「デフレ懸念が払拭されていなくても」あるいは「高いインフレが懸念されてなくても」、実際の円・ドルレートが購買力平価の天井にぶつかると、金融は引き締めに転換されることになってしまう。これは「物価の安定」を使命とする日銀にとって由々しき仮説である。」

 1980年代半ば以降、多くの国で貨幣増加率と名目国内総生産成長率やインフレ率との関係が安定的でなくなった(経済のグローバル化の影響では?)として、マネタリー・ターゲッテイングを放棄する中央銀行が増えた。それに代わって、登場したのがインフレ・ターゲテイングである。

 1998年4月に施行された新日銀法は、日銀に「目標設定の独立性」と「政策手段選択の独立性」の両方を与えている。

「目標設定の独立性」については、新日銀法は日銀の理念または目的として、「物価の安定」と「信用秩序の維持」を規定しているが、物価の安定の具体的な中身の決定は日銀の判断に任せている。

 インフレ目標採用国(ニュージーランド、カナダ、スウェーデン、オーストラリヤなど)では物価の安定を具体的なインフレ率で定義し(財務大臣中央銀行総裁の交渉に基づき政府が決定)、その達成を金融政策の目標としている。

 目標を達成する手段は政府から独立に中央銀行が決定する。すなわち、政府に金利をいくらにせよとか、国債買い入れ額をもっと増やせなど命令されることはない。

 筆者は、インフレ目標採用を提言しているのだが、インフレ目標政策とはルールでなく、金融政策の「枠組み」を明示して、その枠組みにそって金融政策を運営するものである。(必ずしもルール・ベースの金融政策ではない)

 筆者は、目標決定を日銀に任せることに疑義を呈しているのだ。

 最後に、筆者は日本の禁輸政策の良い参考として、イギリスの場合を見ている。

 1992年にインフレ目標政策を採用するまでの20年にわたるイギリスの経済パフォーマンスは、他の先進国に比較して貧弱で、不安定な成長と高率なインフレが特徴だった。1979年に首相の座についたサッチャーはマネタリー・ターゲッテイングをインフレのコントロールのため採用する一方で、成長を促進するために構造改革を協力に推進した。その後、イギリスは欧州通貨制度に参加したため、マネタリー・ターゲテイングに代えて為替レート・ターゲテイングを採用した。しかし為替レート・ターゲテイングはマクロ経済を安定化させることに失敗した。そのため、イギリスは1992年9月に欧州通貨制度から離脱するとともに、インフレ目標の採用に踏み切った。経済成長率は上昇するとともに安定化する一方、インフレ率は急速に低下して、インフレ目標水準近辺で安定するようになった。