世界を知る力

以下は寺島実郎さんの『世界を知る力』(10年1月刊、PHP新書)の要旨紹介です。

21世紀の日本を展望して、こう述べています。

 【日本には、いまでも、世界レベルのシンクタンクと通信社がない。・・・

時事通信共同通信が世界に派遣している特派員の数は、イギリスのロイターやアメリカのAP通信、あるいは中国の新華社などと比べたら、一桁ではすまないほどけた違いである。

「世界第二位の経済力」を誇ってきたにもかかわらず、国家の命運を左右するような情報のインフラ、足下の基盤インフラを整備しないまま、ここまで来てしまった。】

 国の戦略を定める基盤としてのシンクタンク、戦略の基礎となる情報を集めるシンクタンクをもたずに、米国から与えられる情報のみで、国家の方針を決めてきた。

【戦後の日本はアメリカ的ものの考え方にどっぷり浸かりすぎてきた。

「小泉構造改革」とは、まさに01年の対日要望(「規制改革及び競争政策イニシヤテイブ」:中身は、外国企業(つまりアメリカ企業)も自由に参入できるような競争主義、市場主義の徹底した国に変えていってもらいたい)に沿うように、日本を市場原理によって「改革」することを意味していた。小泉政権は、世界潮流から半周遅れぐらいのタイミングで、「日本をアメリカのような国に変えていかなければ」と思いつめ、アメリカの要望に則って、規制緩和や民営化を進めていったのである。

 日本国民は「小泉構造改革」で失われたものを見つめ、(アメリカの)市場主義・競争主義を第一義とする政治に「ノー」と叫んだ。これが、民主党政権誕生の意味するものだ。】

 日本には米国以外の国、例えば中国にしてもロシヤにしても、長い交流の歴史があった。

 【ロシヤに初めて日本語学校が設立されたのは1705年である。

中国は勿論、ロシヤであっても交流の歴史はアメリカより長い。】

【中国との関係を考えると、『「日米関係は米中関係である」とは松本重治が「上海時代」という著書の中で語った言葉だ』。即ち、

米中が連携して日本を倒したのが太平洋戦争だった。

 そして戦後、中国が二つに分裂した。

「共産中国を封じ込めるためには、日本を西側陣営に取り込み復興させるしかない」

1951年講和条約と旧日米安保条約が締結された。もしも蒋介石が中国本土を掌握しつづけていたなら、アジヤの秩序はアメリカと中国によって完全に仕切られ、日本の復興と成長は30年以上送れたに違いない。アメリカの巨大な投資と支援は中国本土に向かったはずだから。

 中国が二つに分かれたことで、日本の復興と成長の道が開かれた。もちろん、日本人の勤勉さや技術力を否定する必要はない。しかし、20世紀初頭から続いた密接な米中関係があったからこそ戦中の悲劇的な日米関係がもたらされたこと、そして、戦後に米中関係の混乱があったからこそ日米同盟がもたらされたことを忘れてはなるまい。】(続く)