親鸞

親鸞」の小説がしばらく前に話題になりました。来年1月から続編が新聞連載されるそうです。しかし、正直に言えば「悪人尚もて往生す」という親鸞の思想は、よくわかりません。どういう時代背景から出てきたのか?いったい法然の思想と親鸞の思想はどう違うのか?

 図書館で書棚を見ていて、“『教行信証』を読む“(山折哲雄著、岩波新書10年8月刊)を見つけました。以下は、同書を読んで、

 親鸞の主著『教行信証』と同時代に生まれたのは『平家物語』です。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』平家物語の冒頭ですが、この「諸行無常」は『平家物語』の重要なキーワード。ところが、この「無常」という言葉が親鸞の口から発せられることはなかった。『教行信証』には「無常」はなく「無明」があるのです。

 「無疑の光明は無明の闇を破する慧日なり(原文の疑、慧には石偏がつきます)」

『平家』は「無常」の響きに耳を澄まして聞けという。『教行信証』は、「無明」の闇を破れと説く。

 本願寺八代の法主蓮如の世紀、即ち応仁の乱として知られる15世紀には、親鸞が忌避した「無常」が再浮上する。本願寺教団の拡大と大衆化に伴って生じた変化である。

『それ おもんみれば、人間はただ雷光朝露のゆめまぼろしのあひだのたのしみぞかし。たとひ また栄花栄耀にふけりて、おもうさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常のかぜきたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてか むなしくなりなんや』(『蓮如文集』)

 蓮如以後の真宗親鸞の頃の真宗とはまったく別のものらしい。それはさておき、親鸞の思想を生み出した時代背景をみてみよう。

 承久元年、親鸞は師の法然やその門下とともに流罪になった。直接には興福寺の僧徒が騒ぎ立てたためだが、念仏停止の指令が後鳥羽上皇土御門天皇のもとに出されている。念仏門を弾圧するものは、たとえそれが上皇天皇であろうと、親鸞は許さなかった。「主上」までが法にそむき正義に反するとの非難を『教行信証』末尾に記している。

 この時代、思想家として道元がいる。

1242年、承久の乱を鎮圧し、名宰相とうたわれた北条泰時が死ぬ。その後、北条時頼が執権として全権を掌中にした。そして、越前の道元は、時頼の求めに応じて鎌倉に下向する。ときに宝治元年8月。時頼は前年、京都から招かれていた前将軍の勢力、および北条一族(名越一族)との権力闘争をたたかいぬいて執権職についた。

この年6月、時頼は評定衆であった三浦康村を急襲し、追い詰められた三浦一族の近親を含めて500余人はことごとく頼朝の墓所があった法華堂で自殺して果てた(宝治合戦)。

間をおかず、下総の豪族千葉秀胤を撃って殺した。こうして三浦氏、千葉氏という鎌倉幕府樹立以来の雄族を、一挙に葬ることに成功した。

道元48歳、時頼21歳。時頼はこの若さで、政治の世界の陰惨と人間界の地獄を見ている。一門一族の多くの血を自分の手によって流したその血の犠牲によって執権職を不動のものにした。

「武者の世」を迎えて時代が大きく転換しようとしているとき、大般涅槃教(父王殺害をして王になったアジャリが救済されるかを論ずる経典)の物語が、当時の戦乱にあけくれる支配階級の心をいかに揺さぶったか。親鸞(『教行信証』)も道元も、大般涅槃教を重要な経典として取り上げている。

言うまでもないことだが、釈迦は人を殺すことを容認しているわけではない。人を殺す者は「悪人」だった。

「無明」とは、自分が生きるため他人を殺さざるを得ない精神の闇を意味したのでは?「無常」とは、運命に翻弄される庶民の嘆きではなかったか?

『悪人尚もて往生す』は、人を殺すことが避けられない武士に求められた教えであったのだろう。庶民を主たる対象とする蓮如の時代に、真宗が変質したのは当然で、その意味で『教行信証』も、そして『正法眼蔵』も、時代の見えざる手によって生み出された作品だった。

親鸞』の続編が、その辺りを詳しく記述してくれることを期待しています。