経済学を知らないエコノミストたち

「経済学を知らないエコノミストたち」(野口旭著日本評論社、2002年6月刊)を読みました。90年代以降、日本経済は継続するデフレに悩んでいます。「失われた10年」とか「失われた20年」といわれています。
 この本は2002年の刊行(00年1月から02年3月までの執筆)ですから、「失われた(20年でなく)10年」について、その原因を、経済学の理論で説明しようという本です。
 著者によると、日本のデフレは、次の3つのキーワード(経済学の基礎理論)で説明できるというのです。
1. 開放経済に拡張したマンデル=フレミング・モデル
開放経済(資金移動・財の輸出入が各国間で自由な経済)において、変動相場制下では金融政策は有効だが、財政政策は無効と説く。
2. ベースマネーとマネーサプライ
中央銀行が供給するマネーをベースマネーあるいはハイパワードマネーという。
また、マネーサプライ(M)は、現金通貨(C)+預金通貨(D)である。
ベースマネーHに対するマネーサプライMの比率は「貨幣乗数」と呼ばれる。
90年代の日本では、名目利子率の低下とともに、とりわけ現金・預金比率が大きく上昇し、貨幣乗数が顕著に低下した。
3.  総需要・総供給分析とGDPギャップ(後述)
  
かれこれ20年近くもデフレが続いているのは日本だけ。何故日本はデフレ状態から脱却できないのか?経済理論で説明する書はないものかと考えていましたが、この本は、著者の説が正しいかどうかは別としても、そうした試みにチャレンジしています。

経済学の理論的帰結の多くは、しばしば人々の感覚的な常識=「世間知」と相反する。経済学の歴史とは、この「世間知」との闘いの歴史であった。アダム・スミスは、政府の規制ではなく、自由な競争こそが、社会的に望ましい経済的帰結をもたらすと述べた。リカードは、貿易を行っている国々は、相互に敵対しているのではなく、利益を与え合っているのだと主張した。それらは、当時の人々にとっては、きわめて「常識はずれ」のものであったに違いない。経済学に関する専門的な知見に基づいて、人々の「世間知」の誤りを指摘するのが、エコノミストの責務であると著者は言う。
マンデル=フレミング・モデルによると、
「一国は為替安定(為替レートの固定)と自立した金融政策と自由な資本移動の三つを同時に達成できない」すなわち、「自由な資本移動のもとで、貨幣供給Mを政策的に与えた場合には、為替レートeは自動的に決まってしまい、もはやその値を政策的には固定することはできない」という命題は、簡単に理解できる。
この体系であえて為替レートeの値を外生的に固定するためには、どうすればいいのであろうか。そのためには、本来は政策変数=外生変数であった貨幣供給Mを、内生変数にしなければならない。「自由な資本移動のもとで、為替レートeをある値に外生的に固定する場合には、貨幣供給Mは内生変数となり、もはやその値を任意に決めることはできない」。要するに、金融政策の自由度が失われるのである。
(分かりやすく言うと、貨幣供給量Mと為替相場は関数関係で結ばれているので、例えば、ドル買いで円安誘導しようとしても、日銀がMを増やさなければ、円高に戻ってしまう。ドル買いをすれば、円でドルを買うわけですから、円の量は増えるわけですが、日銀が「これでは円が増えすぎる」と思うと、「不胎化」と呼ばれる操作をして、市中から円を吸収します。円の量が減ると円高に戻るので、円買いの効果はなくなる。Mとeは互いに独立には決まらない。)
国内利子率iが海外の利子率i*に縛られることなく内生的に動くことが出来るのであれば、それ(Mとeを独立に決める)は可能である。しかし、国内利子率が海外利子率に縛られないということは、資本移動の規制を行うということに他ならない。「貨幣供給Mと為替レートeの両方を外生的に与えた場合には、自由な資本移動を保証することはできない」ということになる。
為替の固定化、金融政策の自由、資本移動の自由は、その一つを必ず放棄しなければならないことは明らかになる。
「この三つのうちの一つを放棄するしかないとすれば、それは一体どれにすべきか」その問いに決定的な答えを与えたのが、通貨危機だった。為替レートの固定化を放棄することこそがもっとも適切な選択であるという現実を示したのである。
もう一度言うと。
自由な資本移動のもとでは、貨幣供給Mと為替レートeの間には、「一方を外生的に与えると他方は必然的に内生変数になる」という関係がある。金融政策に特定の目標を設ける限り為替レートは固定できない。為替レートを固定する限り貨幣供給は固定できない。為替レートをある目標に誘導することは基本的に不可能なのである。
ただしこれは、「デフレに苦しむ現在の日本にとっては一定程度の円安が必要である」という円安派の人々の主張を否定するものではない。そもそも、マンデル=フレミング・モデルにおいて「変動相場制下では金融緩和の効果は高く財政拡張の効果は低い」のは、金融緩和には為替レートの下落を通じた効果が存在するのに、財政政策にはそれがないからである。つまり、円安とは、金融緩和の効果が浸透するための、重要なチャンネルの一つである。金利というチャンネルを失った現在の日本にとって、円安チャンネルがその重要性をますます増しつつある。
為替介入権が政府にあろうと、日銀にあろうと、責任は最終的には日銀が負わざるをえない。なぜなら政府が介入を行う行わないにかかわらず、為替レートは貨幣供給に依存し、その貨幣供給は日銀の金融政策に依存する以外ないから。
ドル買い介入を行った場合の、その円資金の不胎化をするかどうか。もし、日銀が不胎化を行うとすると、政府は円安を望んだが、日銀は円高を望んだことになる。
金融政策は通常、中央銀行が日々の金融調整によってベースマネーを調整し、短期市場金利コールレート)を誘導することによって行われる。短期市場金利の低下は、貸し出し金利等他の金利にも波及するから、銀行貸し出しは増加して、マネーサプライが拡大する。そして所得は拡大し、物価が上昇する。景気加熱抑制のための市場金利の高め誘導は、その逆の効果をもたらす。これが「伝統的」な金融政策運営である。
しかし、90年代の日本では・・コールレートがゼロになってしまった。これ以上の金利下げは不可能である。その場合でも、中央銀行ベースマネーの供給量を拡大させることが出来る。それが量的緩和である。

もう一つ、「構造改革なくして景気回復なし」について。
経済学でいう総需要・総供給分析とGDPギャップ の分析(潜在生産能力―現実のGDP(現実の需要)がプラスのときデフレギャップが存在するという。逆に、マイナスのときインフレギャップが存在するという。)で、答えは明確になる。
端的に言えば、構造改革とは、資源配分の効率性改善へのインセンテイブを生み出すような各種の制度改革のことである。例えば、公的企業の民営化、政府規制の緩和、貿易制限の撤廃、独占企業の分割による競争促進などがそれに当たる。資本や労働などの、より適正かつ効率的な利用を促し、潜在GDPないしは潜在成長率の上昇に寄与する。つまり構造改革とは、経済の効率性向上を通じたサプライサイド(供給側)の強化策である。
それに対して、現実の成長率が潜在成長率と乖離しているときに必要になるのが、マクロ経済政策である。現実成長率が潜在成長率を下回るということは、経済全体の総需要が総供給(=潜在GDP)に対して不足していることを意味する。つまり、デフレギャップが存在しており、デフレと失業が発生する。それが「不景気」である。逆に総需要が総供給を上回り、インフレ・ギャップが存在するときには、インフレが発生する。それが「景気加熱」である。
マクロ経済政策の役割は、総需要の調整によってこのGDPギャップを縮小させ、現実成長率を潜在成長率に近づけることである。
デフレギャップが拡大すればするほど、物価は下落し失業が拡大する。これはまさに、90年代の日本経済そのものである。
重要なには、この状況でいくら「構造改革」を行っても、デフレの阻止や失業の解消にはつながらない。構造改革とは、潜在GDPを拡大させる政策であり、総需要が増えないのであれば、デフレギャップは確実に拡大するから、デフレと失業はさらに深刻化する可能性が高い。