バブルの興亡

徳川家広という人がいる。世が世ならば、19代徳川将軍さまだそうです。1965年生まれで慶応大学経済学部卒、ミシガン大学経済学修士、コロンビヤ大学政治学修士。翻訳家として『ソロスは警告する』なるベストセラーがある。この徳川さん、『バブルの興亡』なる著書があると聞き、県図書館で借りてきました。講談社09年10月の刊行です。
著者の主張のユニークな点は、第三章(「失われた20年」の正体)で述べている以下の主張です。
『批判は浴びせられたものの、1990年代に政府・日銀がとった政策は、実はバブル崩壊後の後始末としては正しいものであった。いや90年代の大半を通じて大蔵省が政争に巻き込まれ、しかも80年代の後半の日本経済が巨大なバブルの中にあったという事実や、バブル崩壊がもたらす可能性について、日本中の誰もが当初理解していなかったことを思うと、大成功だったと言えるかもしれない』
著者は、1982年~2008年の政府債務とGDPを図示し、『バブル期にはGDPの4割しかなかった国の長期債務が、その後10年間でGDPを上回るレベルにまで達してしまった。絶対額では300兆円の増大である。国は景気のために、この300兆円をいわば大盤振る舞いしたのだ。
2002年版の『経済財政白書』によると、バブル崩壊後に日本の企業と金融機関がこうむったキャピタル・ロス(保有資産価値の下落)は、総額で600兆円に上る。増大した国の債務は既存した国富の、ちょうど半分に相当する。
300兆円の大盤振る舞いがなければ、キャピタル・ロスは、実際に起きたのに比べてはるかに深刻な景気縮小をもたらしていただろう。「失われた10年」と呼ばれる1990年代だが、政府は打つべき手を打っていたのである。』
バブル崩壊後、日本政府は一貫して財政赤字を積み増してきた。「不況による需要の落ち込みは財政出動で補う」というマクロ経済学の処方箋を忠実に実行してきた』
(バブル発生後の政府の対応が概ね正しかったとしても、バブルを発生させた政策の責任は逃れられないと、私は考える。)
『いっぽうの日銀は、1991年に入って早々に利下げに展示、・・・・1999年2月には、日銀総裁が、「無担保コール翌日物金利」を0.15%という超低水準に誘導すると発表し、「金利はゼロでもよい」と宣言する。「ゼロ金利政策」の始まりである。
超低金利政策には二つの効果が期待されていた。
一つは、金利を下げることで株や不動産などの資産の利回りを相対的に有利にする。利回りが向上すれば、資産価格はもう一度押し上げられる。銀行の不良債権問題も多少なりとも解消される。
もう一つの狙いは、「利ざや」を大きくすることで、銀行の収益力を強化することだった。これについては、預金者を犠牲にして銀行を救済する措置だとして、マスコミにしきりにたたかれたが、「銀行を守ることを通じて預金者や融資先企業を守る」というのが政策の眼目だっただけの話である。』
同じく1982年〜2008年のGDPとマネーサプライを図示して、こう説く。
『何が問題だったのか。それはマネーサプライの増大が、ただ財政出動と金融緩和で銀行システムを下支えしてきた結果でしかなく、経済活動の活発化がもたらしたものでなかったという点であろう。』
(この点がもっともユニークな指摘と私は考えます。GDPの増大→マネーサプライの増大は成り立つが、マネーサプライの増大→GDPの増大には、必ずしもならないケースがあるのでは?と言うのです。)
日本の銀行は、従来不動産を担保に融資するのが一般的で、その『不動産価格が回復しなかったのである。したがって融資は伸びない。融資が伸びないから経済は停滞する。経済見通しの悲観論が優勢になる。将来の見通しが不安だから担保価値が下がり、さらに融資が伸びない。

『日本経済への悲観論が強まったのは、二つの理由がある。一つは、バブルを支えた期待の源泉にある「物語」、つまりシナリオの崩壊である。もう一つは、バブル崩壊とともに日本人の世界観ががらりと一変したことを理解できなかった歴代の首相が、日本人の期待を上向かせる措置を何一つとらなかったという事実だ。』
日米同盟を外交の柱としている日本としては、「アメリカの軍事力がきわめて効果的であることを示した湾岸戦争の現実を見て、安心すべきところだった。ところが・・
『「軍事を捨てて経済一本槍でやってきたのが日本の成功の秘訣だとすると、軍事が本当は決定的な重要性を持つことがわかった世界では、日本の成功は長続きしないのではないか?」このきわめて筋の通った疑問が日本人の心に浸透していく(自信の喪失)とともに、日本人の自国の将来に対する期待は、下向きに変化していった。やがて資産価値が下がり始める』
というのが、徳川様の診断です。