「逆システム学」再読

児玉龍彦さんのニュースを新聞で見て、その著書「逆システム学」(岩波新書金子勝共著)を再度読んでみました。
最初に目を惹いたのは、次の言葉。
『よく言われるのが自然科学は実験できるのに、社会科学はそれが出来ない。
 しかし、実験というのは、本当の意味で同じに再現するのは難しいことが、自然科学研究者以外の人にはよく理解されていない。実際の自然科学の実験は、実験の材料をなるべく限定し、行う環境を厳密に規定して、結果を観察するものである。ところが、その結果得られた知識はなるべく普遍化して一般的な形で用いようとする。思考過程を節約してなるべく単純な体系の組み合わせで理解しようとするのが科学の方法だからである。
生きた病気の人間の解剖はできないので、病気の診断は難しく、治療はいつも経験則で行われ、結果は統計学的な有効性しかない。』
 「社会科学の正しさは何によって知ることが出来るか?」というのは、日頃の私の問題意識です。
そもそも署名の「逆システム学」の意味は?
「逆遺伝学」という生物学の言葉から生まれたと言う。
「逆遺伝学( reverse genetics)とは、目的の遺伝子を選択的に破壊することで、その遺伝子の生体内における機能を解析することである。手法として、従来の遺伝学と全く逆の手順を踏んでいることから、「逆」遺伝学と呼ばれる。(ただし、ウイルス学の分野においては、合成したウイルス核酸を使って、完全なウイルス粒子を人工的に作り出すことも reverse genetics と呼び、この場合の方法論は、他の生物学のものとは異なる)。以前の自分の記録(2006/02/03の読書日記、以下snozue)http://d.hatena.ne.jp/snozue/20060203を見ると、
『生物の進化を探求する「逆システム学」は、【歴史性をもった対象を扱う自然科学と社会科学の方法城の融合という、何度も試みられては失敗してきた問題に対して、一つの新たな解答】と述べている。「ゲノム解読後」の遺伝学について、
 【大腸菌のゲノムではほとんどが要素であるたんぱくの配列であったのに対し、人間のDNA配列のうち、要素である蛋白の配列は2%以下であり、98%は調節制御にかかわる配列であるという驚くべき事実が明らかになったからだ。ネズミと人間では要素の数はあまりかわりなく、調節制御が代ることが、進化の中心となっているのである。つまり、個別の遺伝子が解明されたからといって、そのままシステム全体がわかるということにはならない。ヒトゲノムの配列の解明によって、簡単に人間全体の個体差が理解できるわけではないということが分かってきた。】
 生命科学においては、遺伝子を出発点として、人間のしくみを説明しようとする要素還元論が今日の主流になっている。しかし、
【高血圧の研究をしていて、血圧を上昇させる蛋白質が、血管の細胞から出ていることが発見された。そこで、遺伝子に異常をおこさせ、この蛋白質が半分しかできないネズミを作った。ところがこのネズミは、予想と逆に血圧が高いことが分かった。この遺伝子は、産まれるまでは血圧を低下させ、それがないと血圧が上昇する。だが、成長したあとは、血圧を上昇させる蛋白を作るのである。】
 全体との関連性の中で、個々の遺伝子の働きが決まるので、個々の遺伝子の機能追及からスタートするアプローチには限界がある。
 要素還元論でない、新しいアプローチのキーワードは、「クラスター」と「トランスクリプトーム」だという。
遺伝子が活性化されて作られるRNAを「トランスクリプト」、その全体像を「トランスクリプトーム」といいます。この「トランスクリプトーム」の挙動を、「クラスター」として研究する、つまり、「たくさんの刺激によるRNAの変動をまとめて、時間的、空間的に一緒に活性化される変動」の研究を米国のアイゼンが提唱した。個々の遺伝子の機能を推定するのでなく、結果としての機能から遺伝子の発現を推定する。「逆」遺伝学の誕生です。
この手法は、社会科学に使える!と共著者の金子さんが考え、この「逆システム学」の提唱となったようです。
snozueでも記しています。
『別の見方をすれば、『クラスターなる変化の集合』から変化を生ずるシステムの機能を推測するとは、現場の変化を良く観察し、真因を探ると言う『現場主義』と相通ずるものがあります。』