福島論

「福島論-原子力ムラはなぜ生まれたか」(開沼博青土社を読みました。
<「原子力ムラ」というテーマについて「中央と地方」と「日本の経済成の関係を論ずる>本です。
 <原子力ムラ>と「原子力ムラ」とを筆者は区別しています。「原子力ムラ」とは、国のエネルギー政策の下で原発およびその関連施設を抱えた自治体および周辺地域の意味、いわば地方の側の「原子力ムラ」です。一方、<原子力ムラ>は、原子力政策の関係者やその研究者によって俗語として使われてきた、硬直的な原子力政策・行政やその周辺の体制・共同体を意味する、いわば中央の側の<原子力ムラ>です。
 筆者は、1984年福島県いわき市生まれ。2011年、東京大学大学院修士課程終了。専攻は社会学
 本書は、著者の修士論文「戦後成長のエネルギー――原子力ムラの歴史社会学」(東京大学大学院学際情報学府2011.1.14提出)を加筆修正したものだそうです。

『急速な成長を、対内的な地方の統制=中央にとっての「植民地化」、つまり、内部の国家システムへの取り込みによって達成しようとした。1945年の敗戦から1995年の地方分権推進法までの期間は、敗戦と同時に失った植民地を通して得ようとしていた資源とエネルギーを、国内に見出し、成長のために用いようとする志向のもとにあった。その中で地方は翻弄され疲弊している。』
 つまり、著者は45年からの50年間、日本(中央)は敗戦によって失われた植民地を国内に見つけることで、高度経済成長は成し遂げられたと見るのだ。
 原子力の開発も、『中央は、戦時下においては他国に比べて遅れた原爆研究への反省の上で、体制を組みなおして戦後の原子力研究開発再開へとつなげていく。戦時下では軍・学がそれぞれの利害の上で対立し成果を残せなかった状況から、官・産が協調しあいながら研究開発を推進していく体制の構築としてあらわれた。』

 88年から福島県知事を勤めていた佐藤栄佐久は、98年には全国で初めてプルサーマル計画に事前了解を表明していたが、01年には一転プルサーマル受け入れを凍結した。
揺らぎ続ける中央の言うがままになっていては地方はその揺らぎによって翻弄され衰退せざるをえないという信念が反原子力への方針転換をさせた
(中央の揺らぎによる地方の衰退の事例として「八つ場ダム」があると著者は言う。)
第6章『戦後経済が必要としたもの』で、
 戦中の常磐炭鉱に連れてこられた植民地の朝鮮人労働者について述べている。
『「どうだい、お前らの飯場ちゃいいところかい」と聞いてみると、「俺も生まれて初めて飯場に入ったんだけぞ、刑務所というのはああいうところでねえかなあ」というんですね。』
第二次世界大戦下で、必要なエネルギーを必死に獲得しようと、もがいていた日本。そこに朝鮮人労働者の差別と隠蔽があった。同じように、戦後経済の成長のために、原発で電力を獲得する陰に「原発ジプシー」と呼ばれる存在があったことを記述し、それと同じような差別の固定化が、中央と地方の間にあったのではと言うのだ。
最終章で、こう述べる。
『「原子力ムラ」の財政は時間とともに悪化するように出来ている。それは建設時から導入時が一番カネが回り、その後は固定資産税の償却など時間がたつほどカネが回らなくなってくるという理解しやすい構造ゆえのことであるが、一方でムラ自身が過剰なハコモノを作りその維持コストがかさんでいるなどの要因もある。しかし、ムラの住民の数や予算規模は、かつて調子が良かった時代に作られたものだからその維持だけでもムラの財政を圧迫してくる。時間がたつほど苦しくなるシステムだ。
 90年代、財政の逼迫は深刻になり・・・・かつて蜜月だった地方と原子力の関係は険悪になり、その葛藤は佐藤栄佐久県政に原子力への態度の変化を迫った。 しかし、その反原子力の動きも、佐藤栄佐久県政の解体とともに消えるのである。
佐藤栄佐久には、数冊の著者がある。是非読んでみたいと思いました。)

著者の心情は、この本に引用している詩で理解できます。
野比佐男(1927〜2005)を中央で有名にしたのは、詩集『村の女は眠れない』

『村の夫たちよ 帰って来い
それぞれの飯場を棄ててまっしぐらに眠れない女を眠らすために帰って来い
横柄な現場のボスに洟ひっかけて出稼ぎはよしたと宣言してこい
男にとって大切なのは稼いで金を送ることではない

女の夫たちよ 帰ってこい
一人のこらず帰って来い
女が眠れない理由のみなもとを考えるために帰ってこい。
女が眠れない高度経済成長の構造を知るために帰ってこい(中略)

帰ってこい 帰って来い
村の女は眠れない
夫が遠い飯場にいる女は眠れない
女が眠れない時代は許せない
許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない』

もう一つ、草野の詩。
『中央はここ
東京を中央と呼ぶな
中央はまんなか
世界のたなそこをくぼませておれたちがいるところ
すなわち阿武隈山地南部東縁
山間のこの村』