梅棹忠夫

梅棹忠夫』(山本紀夫著、中公新書2012年11月刊)を図書館で見つけて読んでみました。梅棹さんは、ものの考え方という点で、私が大きな影響を受けた人です。
梅棹さんを知るきっかけ
 梅棹さんは、昭和32年、雑誌中央公論2月号に「文明の生態史観序説」なる稿を発表しました。当時、私は大学生でしたが、本屋の店頭で「これはすごい論文だ」とびっくりして購入したことを記憶しています。さらに昭和33年8月号で、この論文の続編ともいうべき論文を掲載し、これにも深く感銘しました。私は、いわば、梅棹さんのデヴューからのファンでした。この本は、梅棹さんの先進性と先見性を要領よく説明しています。
以下、同署から
梅棹先生の情報産業論(1963年、『放送朝日』、『中央公論』)
 『梅棹は放送人に対して強いエールを送っている・・・放送人は、モノをつくる「実業」家ではないので、つねに「虚業」意識にさいなまれていたからである。この点に菅氏、梅棹は次のように述べる。
 この虚業意識が、なんらかの意味で実業に対する劣等感を内包しているとすれば、それはつまらないことである。まさに、実質的なもの、あるいは商品を扱わないというところに、情報産業の特徴があったのだ。その特徴あるがゆえに、情報産業は、すべての工業的物質生産および商品的商業を向こうに回して独自の存在であることを主張しえたのである。
 これを梅棹は彼一流のアナロジーを用いて説明する。それは、数学における実数と虚数という概念である。梅棹は言う。
 虚数の発見によって、それが実数と組み合わされて、複素数という、もっとも一般化された数概念の世界に到達することになったのである。』
ポー川の紙ふぶき
 京都大学の調査隊がいたイタリヤの山村に転がり込んだ私は、梅棹が毎日のように、村の若者を個人教師としてイタリヤ語を教わりつつ、丹念に単語カードを作り、一枚一枚おぼえているのをみて驚いたことがある(小林茂阪大名誉教授)。
 梅棹は「ポー川の紙ふぶき」というタイトルでエピソードを書いている。
 『わたしは数千枚の単語カードを、どこで棄てようかとかんがえた。
 ポローニョを過ぎてまもなく、わたしたちはポー川の端を渡った。ポー川はおおきな川だった。満々たる水がゆっくりとながれていた。わたしはポー川の橋の上で車をとめて、ここで丹後カードをすてようとおもった。ビニール袋にいっぱいつまったカードを橋の欄干からぶちまけた。わたしは数千枚のカードがひらひらと紙吹雪のように散ってゆく場面を創造していた。ところがカードの大部分はかたまりになって、ドサッとポー川の水面におちた。・・中略
 現地で民俗学的調査をおこなうためには、その人たちがはなしている言語を取得しなければ、仕事にならないのだ。その言語はスワヒリ語であれ、イタリヤ語であれ、おなじことである。イタリヤ山村はわたしの調査対象である。わたしのイタリヤ語はそのための道具であって、先進文化の取り入れ口ではない。だから、調査が終われば、わすれてしまってよいのである。』
論文の執筆
 『「こざね法(カードに記入した内容のつながりにしたがって、カードをホッチキスでとめてゆくことで文章を作成する方法)」はわたしにとって、「目からウロコ」のようなものであった。書く前に頭の中にあったモヤモヤした感じが整理され、考えがまとまるからである。・・・今も「こざね」法は愛用している。ただし、もう「こざね」は造らず、パソコンに思いつくままに書くべき内容を書き連ね、それらを切ったり貼ったりして文章を書いている』(著者;山本)。(アンダーライン部は小生も実行しています。)
梅棹と大阪万博
 梅棹がまずおこなったことは世界の民族資料を集めることであった。これを梅棹は東大の泉とともに「日本万国博覧会世界民族資料調査集集団」というものを組織して実行した。東大の泉(靖一)研究室と京大の梅棹研究室の若手研究者20人ほど動員して、世界各地で民族資料収集にあたらせたのである。収集品はテーマ館の地下空間に展示することになっていた。このアイデアは、チーフ・プロヂューサーの岡本太郎によるものだった。
これらの民族資料は万博終了後はどうなるのか・泉や梅棹はこれらの民族資料を核として国立の民俗学博物館の設置を目指していたのではなかったか。・・・万博の終わったあと、梅棹は万博跡地に民博跡地利用懇談会の委員として、万博の跡地に国立民俗学博物館をつくるべきことを力説したという。そして、この主張は多くの人の支持を得て承認された。