8.15と3.11

日本が原発を国策とした背景には、冷戦や潜在的核大国たらんとする政治家の思惑があったことは否定できないのではないかと、あらためて参考文献を探してみました。見つけたのが、『8.15と3.11』(笠井潔著、2012年12月刊、NHK出版新書)でした。

 まずは第4章「潜在的保有国ニッポン」から。
「日本が核を持つべきだとは思っていません。しかし同時に日本は作ろうと思えばいつでも作れる。1年以内に作れる。それは一つの抑止力ではあるのです。(略)日本の周りはロシヤであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、同盟国か否かを捨象していえば、核保有国が廻りを取り囲んでいるということを決してわすれるべきではありません。」(石破茂、報道ステーシヨン2011年8月16日)
日米安保条約によって、日本はアメリカの核の傘のもとにある。しかし日本が核攻撃された場合、アメリカが核報復をする絶対的な保証はない。アメリカの核の傘を実効化するためにも「潜在的保有」は有効だと、推進派は判断したのかもしれない。
 もしも自民党政権による「潜在的保有」の“国策”がなければ、福島原発は建設されなかったであろう。福島原発事故が起きるまで、公然と語られることがなかった「潜在的保有」こそ、今日に至るまで日本の原子力行政の見えない基軸として存在してきた。

 こうした発想を著者は「戦争」の文明史的発展の視点から批判する。
 【日露戦争をもって19世紀的な国民戦争の時代は終わる。この戦争のわずか9年後に勃発した第1次大戦は、最初の20世紀戦争になった。】
 20世紀の戦争で【決定的なのは戦争が対戦国を「殺害」するまで続いた事実だろう。国家の「死」とは、戦争を遂行した国家体制の、立憲国家では憲法体制の全面的な解体を意味する。第1次大戦ではロシヤ、ドイツ、オーストリヤ、トルコの4大帝国が敗戦によって崩壊している。】
【20世紀の世界戦争とは“世界国家”を析出するための勝ち抜き戦だった。】
つまり、国民戦争では、国家間の利害対立を解消するのが目的であって、相手国家の体制破壊など考えていない。ところが、世界戦争では、対戦国の体制破壊を最終目的とする。最終的な勝者を“世界国家”として析出するのが20世紀の戦争だったと著者は述べる。
日本国憲法第9条は“世界国家”にいたるだろうアメリカ主導の戦後体制を前提として書き込まれた。これなら、日本が交戦権を放棄しても安全は保障される。】
そして【ソ連の崩壊によって“世界国家”析出運動は終局に達し、20世紀という世界戦争の時代は幕を閉じる。
 冷戦終焉に際して父ブッシュは国際新秩序構想を提起する。(中略)アメリカの独覇に挑戦したのは、1990年のイラクによるクウェート侵攻である。湾岸戦争の21世紀的な画期性は、この武力行使アメリカとアメリカ主導の国連が、戦争でなく治安行動、警察行動として位置付けた点にある。
 “世界国家”への道を歩き始めたアメリカは、全世界の富をかき集めるシステムを構築し終えた。これに痛打を浴びせたのが、イスラム革命勢力による9.11攻撃だった。
 世界貿易センタービルの倒壊は、同時に“世界国家”を目指すアメリカの野望を土台から崩壊させた。20世紀の世界戦争は“世界国家”を析出するにはいたらず、9.11を画期として21世紀の世界内戦が開幕する。
 (9.11の衝撃にブッシュ大統領は、一方では「これはテロではない、戦争だ」と、他方では、「アルカイダは卑劣なテロリストだ」と語るというぐあいに、支離滅裂な反応を示す・・・もし9.11が戦争であるなら、アルカイダパルチザンは兵士であってテロリストではない。もしもアルカイダがテロリストなら、9.11はテロであって戦争ではない。)
 「潜在的保有」の論理がリアリテイを持ちえたのは冷戦期に過ぎない。
 世界内戦の時代には、冷戦期までのような合理的判断や選択を仮想敵に期待するのは非現実的といわざるをえない(ソ連や中国なら、国家理性による判断や行動が期待できるが)。
 北朝鮮核武装は脅威だという。だが、本当の脅威は北朝鮮の核攻撃ではない。(世界内戦の時代、敵は国家ではないかもしれない。彼らにとって日本の原発ほど容易な攻撃目標はないから)福井や新潟の海岸に軒を連ねる原発こそが、最大の脅威だ。
書名の意味は、「戦争」の時代による変化を読み取れなかった為政者の「空気による決定」が8.15および3.11の悲劇を招いたというもの。