『サバイバル宗教論』

『サバイバル宗教論』(文春新書、2014年2月刊)という本が出ました。著者は佐藤優さん。2012年、佐藤さんが、臨済宗相国寺派の僧侶を対象に4回の連続講義を本にまとめたものです。
 これが面白い。特に第4講「すべては死から始まる」が面白い内容でした。
狩猟採集社会では、人間は何時間働けば一日の食べ物を得ることができたのか。最近の実証研究があります。ニューギニヤやアフリカの先住民には、狩猟採集を基本にして生活している人たちが現在でもいるわけですが、その人たちに対する調査研究があり、3〜4時間程度という結果が出ています。
 最近出てきた仮説として、定住革命という考え方があります。定住をするときには、最初に何等かの国家権力のようなものがあったのではないか、権力の方が先行していたのではないかという考え方です。というのも、3〜4時間の労働で、人間は自分たちの命をつないで子孫を残すことが出来るわけです。それなのになぜ、わざわざ長時間苦しい思いをして土地の開墾などしなければならないのか、誰かによって強制されていたのではないかという仮説です。・・歴史実証研究では証明が難しい。
 しかし重要なのは、定住に至るときに、必ず宗教がうまれる。たとえば今のニューギニヤの狩猟収集をする人たちが定住しない理由は二つあります。まずお手洗い。定住した場合には、人間が排出したものの始末ができなければ、衛生状態が保てなくなる。移動生活なら垂れ流して別のところに移動すればよくトイレの心配はいりません。
もう一つは死者の問題です。死ぬと人間は腐って骨になっていきます。さっきまで生きていた人間が動かなくなる。死は恐ろしいものです。自分たちの住むすぐそばに死体があっては怖くて仕方がない。ですから死体のない所に逃げていく。定住革命以前の人は、死の問題と直接向き合わずに済む。定住すると、死の問題と向き合わなければならない。そこから宗教が生まれた。
 
 今、税と社会保障の一体化企画をやっています。元官僚だからわかるのですが、この問題の本質は社会保障にはあまり関係がない。ただ増税がしたいのです。なぜかというと、官僚、特に財務官僚の国民に対して一種のあきらめ感がある。日本国民は、難しいことはお上に任せて、気に食わないことは文句ばかり言うと思っている。
「任せて文句を言う」と言うのが日本国民。こういう状況で責任ある政治をやっていても、政府規模は肥大していく。尖閣で武力衝突でも起きれば国防予算も増やせねばならない。そうすると、取れる時に取るというのが、官僚の発想になる。
消費税で国民をいじめずに金持ちから取ればいい。累進課税も昔は8割だったが、今は最高税率4割だ。大企業はたっぷり内部留保をもっている。一昔前まではこうした議論があった。ところが、今は共産党社民党ぐらいしかしない。なぜなら、逃げることができる。税率の安い香港やシンガポールに逃げようということになります。金持ちや企業は逃げることができるが、逃げることのできないのが宗教。だから宗教団体への課税と言う問題が出て来るが、これに対しては、徹底抗戦が必要です。宗教団体等の中間団体はファシズムに対抗する砦として民主主義を担保する根本なのです。
大家族、ギルド、教会など国家と個人の間にある団体を中間団体といいます。近代化の過程で、これら中間団体からの自立こそが個人の確立だと受け止められた。しかし、こうした中間団体の弱体化は、近代国家の強化と裏腹の関係にある。モンテスキューは、専制化を防ぐ中間団体として、貴族や教会のような勢力を評価していたが、その後のフランスでは、「中間団体を社会から除去することこそ近代化だ」とされ、たとえば職業選択の自由の観点から同業組合などが禁止された。民主主義と平等原理の進展によって中間団体が排除され、かえって画一化と個人の国家への依存が進むという皮肉なパラドックスが生まれた。
 アメリカでは、新自由主義によって「小さな政府」をつくることによってアメリカ国家を強化していこうという動きがありました。国民があまりにも国家の福祉に依存すると、国は弱体化するというのが、レーガン以降の発想でした。レーガンやブッシュはキリスト教保守派の熱心な信者でした。実は、彼らの新自由主義には大前提があったのです。小さな政府ではあるけれど社会は大きいということ。教会にいけば。食べられない人も助けてくれる。自分たちのネットワークで就職を世話してくれる。だから、国家を小さくしても、その代わりの受け皿になる社会、社会団体、中間団体があるという前提です。ところが、古き良きアメリカの中間団体は弱体化していた。だから新自由主義の結果、「1%の富裕層対99%の我々国民」というウオール街のデモ起きる状況になったのです。
実は、時々、野村佐知代さんといっしょになることがあります。二人の間でもり上がる話というのがあります。東京拘置所の中の「臭い飯」の話です。
「臭い飯」というのは、「腐った飯」という意味ではありません。麦が3割はいっているので、麦のにおい、香がするので臭い飯というのです。実は拘置所の食べ物はおいしいのです。夏の土用の丑の日には、ウナギがちゃんと出ます。尾頭付きのエビフライとか、ビーフステーキなんていうものもあります。必ず汁物が一品出ます。昼夜は、大体汁物一品とおかず二つです。土・日は甘い者とおかずが一つ多い。そういう話を野村さんとするわけです。
はたと思うわけです。野村佐知代さんは。何で捕まりましたか。脱税です。脱税は警察が出てこない。国税庁が、検察の特捜部に告発する。そして検察に捕まります。検察に捕まると、留置所を経験しません。留置所というのは。お手洗いの水を自分で流せません。留置所というのは、「面倒見」と言って。たばこを吸わせてもらえます。拘置所ではたばこを吸わせてもらえません。留置所は基本的に雑居です。留置所と拘置所はいろいろ違いがあります。日本は政治犯罪がないという建前になっているが、高級官僚は、実質的に政治犯で時代のけじめをつける。政治的に良くない、国家によくないと検察官が思う人たちを捕まえる。これが特捜部の仕事です。脱税もそれと同じ。国家は税がないとなりたたない。国家と言うものは官僚によって成り立っている。税金を払わないというのは、重大な政治犯罪になる。そこで、最強の捜査機関である東京地検特捜部がのりだすんです。
つまり。税金の本質を言うと、たとえば仮に、官僚一人の生活に年500万円必要だとすると、それを社会から取る。「俺たちは国家を維持しているから、おまえ500万よこせ」と言ったら、誰も払わない。そこでまず、たとえば1500万円取るんです。「日本の国防、外交。教育のため必要として500万円、残り500万円は社会保障費、みなさんに再分配してやるんだから、私たちは専門家として中立的な機能を果たす全体の奉仕者です。」と言う。しかし、その(税金)本質というのは、官僚という階級が自分で生き残るためにやっていることです。
 私は竹中平蔵さんと話をしたことがあります。竹中さんは郵政民営化は必要ないと考えていました。ところが小泉さんが「やる」と言った。それで困りました。必要ないのにどうしてやるんだと。それで田原総一郎さんに相談した
「小泉が郵政民営化を『やれ』と言って困っている。やる必要はないと思っている」と。「でも私がやらないと絶対にできないから、理屈を考えるから聞いてくれ」と、田原さんに話したけれど、田原さんはさっぱりわからんというので、別の理屈をつくった。しかし、田原さんに言わせると、学者を連れて行くと難しいこともわかってしまうから、難しいことのわからない政治家がいいと言って、石原伸晃さんをつれていった。彼もやはりわからない。何度も理屈を考えて3回目にようやくわかる理屈が出来た。
 郵政民営化で税金からの支出がどれくらい減ったか。ゼロです。なぜなら郵便局は税金を1円も使っていなかった。確かに郵便は赤字だったが、その分は、郵貯簡保で補てんしていたからです。税金は使ってなかったから、民営化しても税金は節約できない。
 小泉さんは、あの郵政民営化選挙で、「官僚階級対それ以外の人たち」というに分化を行って選挙に勝ったわけです。
 という具合に話があちこちに飛びますが、面白い話題が満載でした。