『「失敗」の経済政策史]』

『「失敗」の経済政策史』(川北隆雄著、講談社現代新書、14年6月)を読みました。
著者は、東京新聞を経て専修大学講師。著書に「国売りたもうこと、なかれ」、「官僚たちの縄張り」(新潮社)など。
 日本経済の戦後史を敗戦後の傾斜生産から最近のアベノミクスまで、「経済ジャーナリストとしての取材活動を振り返りながら新たに資料を集め再構成して執筆する中で、さまざまな場面が脳裏をよぎった。読者にも、この追体験を共有してもらいたい」と筆者は述べる。
一番印象に残る記述は第6章『「日銀理論」の自縄自縛――迷走した金融政策』です。バブル崩壊後、日銀の政策は、金利をコントロールすべきか、マネー量をコントロールすべきか、迷走したと述べます。
<日銀は短期金利とハイパワードマネー供給量あるいはマネーサプライの双方を思い通りに選ぶことはできない。一方をある水準に決めれば、もう一方はマネーの需要曲線からある水準に決まってしまう>
 つまり、日銀は適正と考えるマネタリーベース供給量を維持する。
短期金利は経済・金融情勢に応じて大きく動くので、コントロールできない。
 そして。日銀は伝統的に、「量」よりも「金利」をコントロールすべきであるという立場をとっていた。
 99年2月、日銀はついに歴史的な政策転換を行った。12日の金融政策決定会合で、無担保翌日物金利の誘導目標を、それまでの0.25%から「0.15%前後を目指す」に変更することを決めた。そして、さらにゼロ近づけるとした。「ゼロ金利政策」が発動された。
 しかし、2000年8月、金融政策決定会合で、「ゼロ金利政策を解除して無担保コール翌日物金利の誘導目標を0.25%に引き上げた。
 景気はゼロ金利政策解除からわずか3ヶ月後の2000年11月をピークにして、交代に向かった。景気悪化のシグナルが出ていたにもかかわらず、あえてゼロ金利政策を解除したのはなぜか。
 それは、日銀自身がゼロ金利政策を「異常」と感じ、早く「正常」に戻したいと考えていたからだ。
 ゼロ金利になればさらに金利を下げることは不可能になり、上げることしかできず、金利は片道でしか操作できない。日銀にとっての金融政策の主たる手段は金利操作であり、それがきわめて制約されるのだから、日銀にとっては異常な事態に違いない。
もう一つ、速水総裁は日銀の独立性を強化した改正日銀法の施行(98年直前に就任した経緯があり、「独立」への思いは特に強かった。)
速水としては。日銀にとって「異常」なゼロ金利政策を半ば強制されたのだから、早く「正常」に戻すために、日銀が自主的に決めなければいけない、と強い使命感に燃えていたようだ。だが、それが裏目に出て、回復しかけていた景気は超短命のうちに収束した。
 もっとも森永卓郎は、日銀は独立性のためというより「もっと単純な考え方」でデフレ政策に戻った?と指摘する。
「日銀はデフレを継続したいのでは?「デフレというのは、日銀の製品である紙幣の価値が上がることである。
 ゼロ金利政策解除からわずか半年あまりの地の2001年3月19日の金融政策決定会合では、輸出の減速、生産の減少、在庫の過剰感。景気先行きの停滞感を理由に、ゼロ金利政策への復帰を決めた。無担保コール翌日物金利は翌4月には、0.02%に低下し、半年後の9月には0.005%さらにその後、0.001〜0.002%と一段とゼロに接近する。
 しかも今回はたんなるゼロ金利ではなく量的金融緩和政策という、日銀がかつて経験したことにない領域にまで踏み出した。この時の「量」の指標は民間金融機関の日銀当座預金だった。
 この量的緩和については効果があったかなかったか、評価は分かれている。野口由紀雄のように「効果はなかった」との批判はあった。その一方で、「もし、この政策を実施しなかったら、日本経済はもっとひどい状態になっていた」と、少なくとも下支え効果はあったの反論がある。
 実際はどうだったか。
量的緩和して1年後の02年2月からは08年2月までの73か月にわたる戦後最長のの景気回復(GDP伸び率のプラス)が始まった。この間の名目GDP成長率は02年度こそ直前の不況を引きずり0.7%減とマイナスだったものの03年度は0.8%増、04年度0.2%増、05年度0.5%増、06年度0.7%、07年度0.8%増とプラス成長を実現した。デフレ下に5年連続小幅ながら名目プラス性雄蝶を実現できたのは、効果や因果関係の不明な「小泉改革」よりも、日銀の量的緩和の方が寄与したと考えられるのではないか。
 この指摘は面白い。景気回復をGDP成長率のプラスと定義したこと。量的緩和が、景気回復に有効であること。有効とはいっても、2000年代初頭の小泉政権下で1%未満の成長率に過ぎないこと(このあたりが量的緩和策の限界?)。戦後最長の景気回復期において、国民に景気回復の実感はまったくなかったこと。等々、国の経済政策を考えるヒントが多い。
 こうした経済情勢を受けて日銀は、06年3月9日、量的緩和を解除してゼロ金利政策に戻した。総裁は03年3月福井俊彦に交代していた。
 日銀は、06年7月にゼロ金利を解除して『無担保コール翌日物金利の誘導目標を0.25%に引き上げ、良く7寝n2月には0.5%に再引き上げした。消費者物価上昇率は同月から再びマイナス基調に転じ、日本経済はデフレ状態に舞い戻った。折角デフレ脱却のきっかけをつかみながら、日銀は自らの手で、その目を摘んだのだ。後に岩田紀久男は「日銀は「物価の番人」ならぬ「デフレの番人」と評した。
 そんな状態で、日銀はさらなる利上げをねらっていた。操作目標は、「量」でなく「金利」であるべきという日銀の本能のなせる業である。
しかし、アベノミクスの始まり、黒田日銀総裁は、 「これまでとは次元の違う金融緩和です」と、宣言しました。)
 どこが異次元か。一言でいうと、従来の日銀の政策は。金利のコントロールであった。それが、マネーの量をコントロールすることにしたというのす。