安保条約の成立

集団的自衛権」および「沖縄基地問題」の、問題の本質を知るためには、その基礎にある日米安保が、どのような交渉過程で締結されたかを知る必要がある。
6月23日は、「沖縄慰霊の日」。第二次世界大戦沖縄戦が終了した日だ。この日に因み、基地と日米安保を復習したいと岩波新書の『安保条約の成立』(豊下楢彦著、1996)を県図書館に出掛け借りてきて読みました。副題は「吉田外交と天皇外交」とありました。
 いやぁ面白い本でしたね。18年も前にこういう面白い本が出ていたとはしりませんでした。
 吉田は、1951年のサンフランシスコ講和会議に日本政府代表として出席し、条約に署名することを、嫌っていたそうです。この時、講和条約だけでなく、日米安保条約も調印されました。吉田がきらったのは、安保条約に調印することだったらしい。
 米国は平和条約と同時に日米安保条約の調印を迫っていた。この本の記述によれば、吉田は、安保条約に、自信を持つことが出来なかった。日米安保は、吉田自らの「外交センス」で構想していたものとは、まったく異なった筋書きで日米交渉が進展し、その結果としてまとめられた条約であった。
 具体的に述べると「日本国は、・・・、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内およびその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希求する」(日米安保前文)
此処の箇所、「日本および米国は日本領域内に米国軍が駐屯することに合意した」と改定を求めた。その根拠は日本が米国軍に駐屯してもらいたいのは日本心理であると同様に、米国が日本に駐兵したいことも米国心理。五分五分だから「合意した」とすべきである。
また、第3条で、米軍の日本における「配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する」と定められた。「行政協定」をめぐる交渉は、サンフランシスコ会議を挟んで続けられ、ようやく翌52年2月に調印を終えたが、それは、藤崎条約課長が「フィリピンがその主権をアメリカに屈辱的に降伏したものとみなしていた47年3月の米比軍事基地協定よりも「屈辱的」なものであった。
 すなわち、米比協定では、どこの地域を基地にするかが協定で規定されていたのに対し、「行政協定」ではその規定が欠落しているため、「日本の全国土が基地の対象」となりうる「全土基地方式」だった。また裁判管轄権の問題では、日本側が、「米比協定では、ある場合、フィリピンがアメリカ軍人を裁判できることになっている。行政協定が米比協定に劣るようでは困る」と主張したが、』この段階では米国に押し切られ、“フィリピン並に改定されたのは53年9月のことだった。
その吉田の代表固辞を覆したのは、昭和天皇であったという。
この本の著者は、大胆な仮説を提起している。『安保条約は、交渉の最高責任者が署名を固辞し続けるなかで、ダレスと昭和天皇の圧力によって締結に至った』。
(ここの経緯の記述が、この本の一番面白い所です。)
 最初、日本が用意した条約案は「日本の平和と安全を守ることはとりもなおさず、太平洋地域およびアメリカの平和と安全と平和を守ることだから、日本が武力攻撃を受けた場合、アメリカは日本を防衛し、日本はこれに可能な協力をする。すなわち、両国は集団自営の関係に立つことを規定し、両国がこのような関係にあるから日本は、合衆国軍隊の日本に駐留することに同意するという趣旨を根幹とし、あくまで国連憲章の枠内での結び付きを考えたものである。(西村条約局長(当時))
即ち、日米二国間の軍事条約ではなく、国連憲章の枠内での条約を考えた。
この考え方は第4条で「この条約は、国債連合またはその他による日本区域における国債の平和と安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置またはこれに代わる個別的もしくは集団的安全保障措置が効力を生じたと日本及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする」と、日米安保が国連の存在を前提することのみを規定することに残されている。