『経済学の考え方』 

 宇沢弘文さんが9月18日世を去った。改めてどんな主張をされた方か、著書を読んでみたいと、図書館から、岩波新書『経済学の考え方』(1989年刊)を借りて読みました。
 一言でいえば、宇沢さんの「私選経済学史」でした。
もっとも筆者は「あとがき」で『本書は経済学史の書物ではない。経済学の考え方がどのように形成され、発展してきたかという面に焦点を当てた。経済学者がその生きたときの時代状況をどのように受け止め、経済学の理論に昇華させたかを強調したかった』と述べている。
つまり、アダム・スミス以来の経済理論は、経済学者が時代状況をいかに受け止めることで、生まれてきたかを解説しているのです。
 取り上げている経済学者順に要約しますと、
アダム・スミス(1723〜1790):労働の社会的分業を出発点として、労働こそ社会発展の本源的な力であることを明らかにして、自由な市民社会の象徴としての市場的交換の意味するところを考察することで、商品、貨幣、資本、産業組織、資本主義的社会の成立過程、国際貿易に関する理論を展開、資本主義的経済制度のもとでの経済循環プロセスを解明し、さらに市場経済社会における国家の果たすべき役割を分析した。国富論において経済学の全体像が作り出されたのである。。
リカードマルサス
 リカードは分配の問題こそ経済学の根本的問題だという考え方を終始一貫とり続けた。
スミスが生産力の上昇が、地主、資本家、労働者の間に予定調和的に分配されることを主張したが、これに対して、リカードは、分配に関する理論的枠組みを作った。リカードの名を高からしめたのは、比較生産費説である。
 イギリスでリネン1単位を生産するのに、労働者100人、ワイン1単位を生産するのに労働者120人を必要とする。これに対してポルトガルでは、リネンには90人、ワインには80人の労働者を必要とするとしよう。このとき、イギリスは、リネンを輸出してポルトガルからワインを輸入する。ポルトガルでのリネンの生産費は、イギリスより安いが、それでもポルトガルはワインを輸出して、イギリスのリネンを輸入した方が有利となる。この考え方がリカードの比較生産費説である。イギリスはリネンの生産に比較優位を持ち、ポルトgルは、ワインの生産に比較優位を持つというわけである。関税をかけない自由な貿易によって、イギリスもポルトガルも、利益を受けるという主張が展開される。(労働をはじめとする生産要素が自由になんのコストもかけることなく一つの産業から他の産業に移動できるという前提である)
 マルサスの『人口論』はm人口の増加が等比級数的に起こるが食糧生産は等差級数的にしか増えないという主張を展開した。
 マルクスは、貧困の問題を、個別的、偶然的な問題としてではなく、階級間に存在する対立、矛盾かその必然的帰結とした。
 資本主義経済を一つの歴史的過程としてとらえ、剰余価値と搾取の概念を用いて、資本主義的生産様式に内在する矛盾を明らかにするという二つの点に主要な経済学への貢献がある。
 ハイエクは『隷従への道』(1944)で、計画経済は、政府ないしは中央集権的な計画当局が、各企業体の技術的条件、労働者の質、労働条件について正確な知識を持ち、現在から将来への世代に至るまで、人々の生活形態についても詳しい情報を持つことを前提とする。そのことは必然的に。個人の尊厳、市民的自由を侵害する。このような計画経済は究極的には、全体主義的な政治機構を前提としなければならないということを主張した。
 各個人の主体的な選好基準と矛盾しないような形で、マクロ的な経済計画を作ることが可能かというのが、インセンチブ・コンパイビリテイの問題である。
 レオン・ワルラス一般均衡理論
 1870年代に誕生した新しい経済学の考え方(新古典派経済理論)をもっとも整合的な形で展開し、現在に至るまでもっとも基礎的な理論の枠組みを提供したのは、レオン。・ワルラス一般均衡理論である。
各個人は、一方では生産者であり、他方では消費者である。各消費者は、その効用水準がもっとも高くなるよう、労働の供給および各消費財の消費量を定める。需要関数および供給関数を求め、市場均衡は各財について、需要と供給が等しくなるときに実現すると考えるのである。
 新古典派経済学は、前提として、生産要素の可塑性、生産期間の瞬時性、市場機構の安定性という仮定が置かれている。
 すべての生産要素について、供給量が完全に使用されているとするのだ。
とくに労働について、完全雇用状態が一般的であるという。また生産要素が可塑的であるという前提条件からわかることは、投資と言う概念がほとんど無視されている。投資というのは、固定的な生産要素の蓄積を意味するが、生産要素がすべて可塑的、可変的と言うなら生産要素の蓄積の必要性はないことになる。
 新古典派の前提の矛盾を指摘したのは、ソースチン・ヴェブレンである。彼は、資本主義のもとでは私的な意味でも公的な意味でも、浪費ということが、完全雇用を実現するために不可避であって、市場経済制度に内在する半論理的、反社会的要因に基づくもので、資本主義という経済体系を維持するかぎり、回避しえない矛盾であると考えうに至った。。
 「暗黒の木曜日」に始まる1929年は史上最大の大恐慌になったが、エブレンは、1929年8月、彼の予見的分析そのままの形で起こったニューヨーク市場最大の暴落の直前生涯を終えた。
ケインズ
 『一般理論』をはじめとして多くの著作を残したが、それらすべてを通じて共通した理念が貫かれている。資本主義的経済制度の下における資源配分、所得配分は必ずしも効率的ないしは公正なものではないし、経済循環のメカニズムも安定的なものではなく、政府はさまざまな形で経済の分野に管よしなければ、ン低的、調和的な経済運用は望みえない。完全雇用と経済活動の安定化という要請にこたえて、財政・金融政策を弾力的に運用する資本主義経済の経営理念を求めるということだ。
 戦後の経済学の発展の中で、宇沢さんがもっとも評価するのは、ジェーン・ロビンソンでるようです。二つの著書を紹介しています。
「資本蓄積論」技術進歩の相度が賃金水準によって影響される場合が論じられ、不確実性と期待の問題、金融制度、制度的な条件、法律的な規制がどのように長期的蓄積過程に科かかわるか、分析が展開されている。
「異端の経済学」
 第一の危機は1930年代に起きた。1920年代の終わりから深刻化した世界の資本主義経済の大不況を契機としてそれまで支配的であった新古典派理論は、理論的整合性と現実妥当性の両面で信頼性を失い、崩壊してしまった。この第一の危機を解決したのがkリンズの『一般論』であった。
1960年代から70年代にかけて、経済学は第二の危機に見舞われている。自由主義的私企業制度の存亡にかかわる危機が起きている。ここで求められるものは、効率性、経済成長ではなく、分配の公平、貧困の解消でなければならない
 私見だが経済成長を目指す政策が効果を上げていないのは、格差の拡大を阻止できないからではないか。低所得層が消費を拡大できないと全体としての成長率は低下せざるを得ない。この点を解明する経済学の理論が出てこないのは、経済学者が今日の時代状況を受け止めるにせいこうしていないからではないか。 終章は「反ケインズの経済学」、「現代経済学の展開」で、近年の時代状況と経済学者の受け止め方を詳述している。