『世界は分けても分からない』

福岡伸一著、講談社現代新書、09年7月刊)という本を読みました。いや、実に面白い本でした。過去1年間に読んだ本の中で一番面白い。著者は、分子生物学者として著名な方ですが、分子生物学で近年判明した事々の中から興味深い話題を取り上げて雑誌「本」に08年6月から1年間連載したものをまとめた本です。どのように面白いか、その中の一つを紹介します。

 【誰が決めたのか、「臓器の移植に関する法律」は、脳死した者の身体は「死体」に含まれるとした。すなわち、脳死を人の死とすることが決められた。以来、10年以上が経過した。脳が死んでも末梢の臓器は生きている。いくつかの臓器がその動きを停止しても、個々の細胞はなお生きながらえる。しかし、人が決める人の死は、生物学的な死から離れて、どんどん前倒しされている。・・・本来、連続して推移する生命の時間をすっぱりと切断する。
 死の対称点は誕生である。人は一体いつ生まれるといえるだろうか。すべての細胞は細胞から生成するのだから、ここにも本来連続性のみが流れている。不連続面はどこにもない。精子は精原細胞が分裂して生成する。卵子は卵原細胞が分裂して生成する。細胞が生きているということからいえば卵子精子も生きている。しかし、それはまだヒトではない。生物としての人の出発点は選ばれた卵子精子が合体し、新たな発生のプログラムが開始されるとき、つまり受精卵が誕生したとき、と考えることには自然な納得がある。
しかし、この素朴な考え方はおそらく、近いうちに強力なロジックの前にたじろがざるを得ないだろう。
死の定義が素朴な問題ではなかったように、誕生の定義も全く素朴な問題ではない。今後、立ち上がってくるロジックは・・・
人の死を、脳の死ぬ時点に置くのならば、論理的な対称性と整合性から考えて、脳がその機能を開始する時点となる。つまり「脳始」である。脳始論に立てば、明らかに、受精卵はまだヒトではない。細胞分裂が進み、その中から神経系の初発段階が形成され始めるのは、受精後およそ20日前後のことである。脳の神経回路網が構築され、脳波が現れるのは、さらにずっと後、受精後24〜27週のできごとである。いわゆる意識が――それがどのようなものかはあえて深入りしないけれど脳の活動の直接的な産物とするなら――、生まれるのはこのあとまもなくのことだろう。
(余談だが、年齢は満年齢よりも数えで数える方が合理的と私は考える。誕生時点で1年近い時間もう生きているからです。)
脳死がヒトの死を前倒ししたように。「脳始」は定義の仕方によりいくらでもヒトの生の出発点を先送りしうる。
しかし何故そんなことが必要なのか。それは脳死と臓器移植の関係と全く同じである。死んだと定義された身体から、まだ生きている細胞の塊を取り出したい。それと同じ動因が、ヒトの出発点近傍にも存立しうる。受精卵およびそれが細胞分裂してできる胚が、脳始以前の、まだヒトではないものと定義しうるのなら、それは単なる細胞の塊に過ぎないとみなしうる。そうなれば、胚を再生医療などの名目でいくらでも利用しうることになる。
私たちが信奉する最先端科学技術は、私たちの寿命を延ばしているのでは決してない
私たちの生命時間をその両側から切断して縮めているのである。】、
以上は生物にとって。時間の切れ目がないという話ですが、空間の切れ目も判定しがたい。(例えば鼻という臓器の範囲を決めることが難しい。臭覚の神経は脳にまで及んでいる。)「分けて分かろうとしても、そもそも分けられない」というのが書名の意味です。

 以前、TUKAMOTOさんにお会いしたとき、「NOZUEさんの本の内容紹介は、実に的確なので、紹介文だけで内容がわかってしまうから、その本を読む必要はもうない」と言われました。
 この本だけは、入手して読まれて損はないと思いますよ。イチオシです。