「自然な建築」

隈研吾著、岩波新書08年11月刊)という本を図書館の棚で見つけました。隈さんの本は一月ほど前「小さな建築」を読みました。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20150318
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20150319
「あの本はおもしろかったな」と、この「自然な建築」も読んでみることにしました。
「20世紀とはどんな時代でした」と問われれば「躊躇なく「コンクリートの時代でした」と答える。この書き出しで始まる。
 20世紀のテーマはインターナショナリズムであり、グローバリゼーシヨンであった。一つの技術で世界を覆いつくし、世界をひとつにすることがこの時代のテーマであった。物流、通信、放送、あらゆる領域でグローバリゼーシヨンが達成されたが、建築、都市の領域で、それを可能にしたのがコンクリートという素材だった。
 21世紀の建築は、こういうコンクリートのような画一的資材でなく、産地直送の素材を使う「自然な建築」と主張する。
 かつてフランク・ロイド・ライトはラジカルな建築とは、実は自然に根をはった建築だと言い放った。ラジカルと根っこという言葉が同じ語源をもつこと忘れてはならないと彼は語った。
 その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番良いと語り伝えてきた。
「自然な建築」には、素材が所在地のものと言うだけでなく、所在地の自然(環境)に適合した建築の意味でもある。
 以下、この本で紹介する「自然な建築」。
石の美術館;栃木県那須町、地元産の芦野石の格子が特徴。
三分の一の石を抜き取っただけで重かった壁は、突然軽やかに感じられた。空調機械は極力使わず、孔はふさがずに、風が吹き抜けるままにした。どうしてもふさぎたい場所はガラスの代わりに、六ミリ厚に薄くスライスした大理石をはめ込んだ。
ちょっ蔵広場;栃木県高根沢町大谷石の産地である。
 大谷石の表面を見入っているときライトを思い起こした。
 旧帝国ホテルの設計を任されたとき、何故彼はこんな大谷石を選んだのであろうか。この石は建築の素材として欠点だらけである。表面には小さな穴が無数にあいていて汚れやすい。そもそもやわらかくて石としてはひどく弱い。彼がデザインした帝国ホテルの外壁は、この大谷石とタイルの組み合わせで作られている。常滑の工場で、その褐色のタイルを焼くとき、彼はタイルに無数の縦じまを刻むように命じた。釘のようなとがったものを使って、焼く前の柔らかいタイルをスクラッチした。
 縦じまという「孔」のあいたスクラッチタイルは、本郷の東京大学の外壁に大量に使われた。関東大震災直後の建築業界は、資材不足で大混乱に陥った。当時、東大キャンパスを設計していた吉田祥三は、同質のタイルを同時に供給するのが不可能であることを知った。ライト流のスクラッチを施すと、色が不ぞろいのタイルであっても不思議とお互いがなじんでみえることを発見し、東大キャンパスをスクラッチタイルで覆ったのである。
 ちょっ蔵広場で、われわれのたどりつたアイデアは、大谷石と鉄板を組み合わせて一つのおりものを作るというアイデアだった。
広重美術館;栃木県那賀川町馬頭
 この地に生まれた広重作品の収集家青木さんのお孫さんの青木久子さんが、青木家の出身地の馬頭町に寄付したことから美術館建設の話になった。このあたりは八溝スギと呼ばれる杉の名産地である。裏山の杉林のような建築をつくりたい。
 八溝杉を使うには、最初に不燃化の問題があった。
宇都宮大学に籍を置く安藤さんは、独学で杉の不燃化を研究し、遠赤外線で杉を焼いた後、薬剤処理をするという手法を開発した。
和紙の壁が使われた。和紙の裏はプラスチックの人工和紙で裏打ちされている。
竹の家
 竹を装飾でなく建築を支える柱として使えないか。ヒントになったのは、CFT(concrete filled tube)と呼ばれる建築技術である。CFTならぬCFB(bamboo)にした。問題は二つ、コンクリートの柱にできるような太い竹が存在するか。もう一つは、節を簡単に取り除けるか。日本の孟宗竹はたいしたもので直径30㎝程度までなら手に入る。節を取るのも簡単だった。
 第1号の竹の家が日本に完成して、しばらく経った頃、中国の万里の長城の足元に住宅を設計してほしいという話が舞い込んだ。
 竹の家を、敷地の急斜面の上に、造成を一切せずにそのまま載せるというのが我々の提案だった。ご存じのように万里の長城付近は、平らな土地がどこにもない。地形の面白さを生かすように、建物の底の部分をカーブさせて、あのうねった地形に合わせる。万里の長城竹の家を誕生させた。
亀老山展望台;;愛媛県今治市
山の頂上は切り落とされ、アスファルトで舗装され白線が引かれていた。駐車場になっていた。ここに町のシンボルになるような展望台をたててくれと言うのが、町長の要望だった。
我々の提案は、山頂を元の山の姿に復元し、その復元された山にスリットのようにして展望台を切り込む案であった。
「自然な建築」とは、地元産の素材を使うだけでなく、自然(環境)と調和する建築を意味する。山頂の駐車場を元の山に復元するのが、最も環境に適合しているとの考えであった。

このように読みすすんでくると、建築家は思想家である、と感じさせられる本でした。