脳はなにかと面白い

気鋭の脳科学池谷裕二さんの新刊がでました。『脳は何かと言い訳する』(新潮文庫)です。

同書から面白い話を紹介しましょう。

体と脳の関係

 理学療法の先生方と話をする機会がありました。リハビリをすると、若い人と年配の方では、若い人の方が早く買い回復して、早く退院します。それについて、一般に、若い人の方が「神経の再生」が早いからだと言われているのですが、今、これとは視点の異なった説も唱えられています。

 脳自体は、若い人も歳とった人も、比較的、回復するのは早い。つまり、神経はあまり老化しない。では、何が年齢によって違うかというと、体の元気さです。若い人のほうが、体がよく動くので、体から脳にバシバシと情報が送られます。一方、歳をとった人は、同じ時間だけリハビリをやっても、体があまり動かないので、結局、脳の回復が送れてしまうというのです。

 ですから、どちらかというと脳よりも体の方が大切で、「体に引っ張られる形で脳も活性化してくる」と私は考えています。よく人類の未来像として、脳は異常に発達しているけれども、体は退化してしまっているSF生物のイラストを見かけますが、実際には、体が衰えれば脳も衰えるだろうなあと、私には思えるのです。

私の解釈:魚類や鳥類、爬虫類にも脳はあります。それら動物の脳の機能は体をうまく動かせるようコントロールすることです。つまり、脳の神経細胞は、体の各部から送られてくる信号に反応することが基本的な機能。ですから、体を動かして脳に信号を送ることで、脳細胞のトレーニングはできる。

 脳は10%しか使っていないのか?

 水頭症という病気がある。成長の過程で脳に水が溜まって、脳が正常に発達できなくなってしまう病気です。精神遅滞などの症状が現れることがあるが、まったく正常に成長することも少なくない。社長として会社を経営したり、大学で数学賞を取るくらい優秀な人もいたほどだ。こうした例では、たまたま病院で脳を調べたときに初めて彼自身が水頭症であることを知るケースも多い。ときに脳は正常者の10%程度の大きさしかなかったが、そんな小さく不完全な脳でも、人間として正常に判断したり行動したり思考したりできたのである。

つまり、人間の体をコントロールするには10%の脳細胞で事足りるのだが、しかし、このことは、人間が10%しか脳を使っていないということを意味するわけではない。脳の神経細胞は、あれば一応、100%使っている。

脳の神経回路と地下鉄網

 動物の脳は、進化の過程で、大切な部位から順順に造られました。脳でいえば、脊髄、延髄、間脳といった脳の本質的なところは、魚類や爬虫類でもよく発達しています。哺乳類のような歴史の浅い動物では、その外側に大脳皮質が発達しています。つまり、脳の真ん中辺りに、より生命に本質的な部分があって生命に本質でない部分は、外側にあります。大切なものは奥深くということですから、外傷などのケガを考えると、合理的です。

 しかし、大脳皮質がいちばん外側にあるという歴史的経緯は、実をいうと、ちょっと残念な側面もあります。なぜかというと、大脳皮質の神経ネットワークは、意思や意識などの高次な脳機能を生み出す場所です。つまり、ネットワークを綿密に張り巡らせる必要がある脳部位なのです。そのネットワークを造るための配線の距離が長くなってしまいます。

 もし神様が存在しえ、計画性をもって一から脳を設計したとしたら、こんなヘンテコな構造には作らなかった。進化の過程で少しづつ作り上げてきたので、今更脳の構造を根本から作り直すわけにはいかないのでしょう。

 これはちょうど、東京の地下鉄網に似ています。新しい地下鉄を設営するときに、すでに存在している路線との兼ね合いで、結局まだ掘削されていない地下の深いところまで掘らないといけない。工事のコストがかかる。完成後も、乗客は地下深くまで降りていかねばなりません。

「思い出す」ということ

 「思い出す」という行為も不思議なものです。たとえば、「江戸幕府の初代将軍」の名前を思い出そうとするとき、脳に保存されている人名リストから「徳川家康」という名前を検索してきますそれだけではありません。徳川家康という名前が見つかったら、脳は検索作業を自動的にストップします。どうして、徳川家康が今探していたものだ「私」は分かったのでしょう。そもそも正解がわからないから、検索を始めたのに、徳川家康に行き当たったときに「なぜそれが正解だ」とわかったのでしょう。

私の解釈:「徳川家康」を思い出したとき、「家康」という名前だけを思い出すのでなく、「家康」に関連するあらゆる記憶がネットワークとして呼び出される。それらのネットの記憶との間に「家康」という答えが何の矛盾もないとき、答えは正しいと人は判断する。つまり、人が正しいという意味は、「関連する情報との間に矛盾がない」という意味ではないでしょうか。

 もう一つ、脳の記憶は、複雑なステップを経るが、少なくとも、「獲得」「固定」「再生」の三つの工程に分けて考えなければいけない。

 実際、脳を覗くと、「固定」は複雑なステップを踏んでいることが分かる。記憶専用ネットワークの結合パターンがダイナミックに変化することで、「固定」が行われると考えられているが、このとき、記憶のための特定の遺伝子たちが働いている。この遺伝子から必須な分子が合成されないと、記憶の固定ができない。ここで面白い点は、一度脳に記憶が登録されてしまえば、もはや遺伝子は必要ない。つまり、遺伝子の発現がなくても「再生」が可能なのだ。

 ところで、記憶には「再固定化」という第四のステップがあった。

「記憶を「再生」している最中に薬物で遺伝子の働きを阻害する。思い出すだけなら遺伝子の発現は必要ないので、記憶力は正常にみえる。驚いたことに、遺伝子発現のない状態で、思い出した記憶は、それ以降脳から消えてしまった!

 つまり、記憶の「再生」の際、記憶の「再固定化」を行っていたのである。

私の解釈:パソコンでファイルをいじっているとき、ミスってファイルを消してしまったことが数回あります(記憶容量の空きが少ないとき起こり易い)。この種のファイルは呼び出して使った後、デスクに再書き込みをしているのですね。「再固定化」に良く似た話です。

自由意思はあるか

リペットという研究者の行った有名な実験があります。

被験者に「ボタンを好きなときに押してください」と言っておいて、、被験者ガボタンを押したときの脳の活動を調べました。当然、常識から考えれば、まず「押そう」という意思が生まれて、そして運動をプログラムする脳部位が活動して、そして手指にボタンを押せという指令が送られるのだろうと考えられます。

 ところが結果は違った。なんとボタンを押したくなるよりも前に(長いと1秒も前)脳の「運動前野」が既に準備を始めていることが分かった。つまり、最初に(手を動かす)脳の活動が生まれ、次に「押そう」という意思が生まれ、そして指示が出されて「手が動く」

 自分の意思でボタンをおしているような気がしているけれど、実は(手を動かす)脳の動きが先で、意識はずっと後だった。つまるところ人間に自由意思はあるか。科学的な見地からは、自由意思はおそらく“ない”

「押す」という意識が生まれたとき、脳は既に押す準備はしている。そのとき「押すことをやめる」ことも出来る。そこに自由がある。<自由意思>はないけれど<自由否定>はある。

 私の解釈:人間の運動を考えると、脳から手・指の筋肉に到る信号の伝達時間が遅いので、手・指を動かす準備を脳は先に準備する(それでないと、必要なタイミングで体を動かすことが出来ない。スポーツの場合を考えると分かりやすい)。その後、手・指を動かすという意思が脳に生まれる。

神経の中の電流の流れ方は、細胞の端まで流れると、隣の細胞と連結されていないので、先端で科学物質を放出する。隣の細胞は化学物質を受け取ると、電気を発生し、端まで流す。つまり、電気現象だけでなく、化学反応と電気現象を組み合わせているから、時間がかかる。
 面白い本でした。