手入れの思想

 養老孟司さんが『手入れの思想』(新潮文庫2013年11月刊)という本を出しました。氏の講演をまとめたものですが、養老節を堪能できる本でした。
 最初に養老さんの「人工と自然」観、
人工は人間が設計したものですから、人間の意のままに動かせる。しかし、自然は人間が設計したものでないから、人間の思うようにはならない。思うようにならないが、「手入れ」を続けて、何とか人間と折り合いをつけることができるようになる。

【二つ軸を考えます。一方の軸は人工(都市化)の軸です。「みなとみらい」でも天王洲でもいいし、新宿でもいい、ああいうふうな典型的な人工的な世界。もう一つの軸は自然。自然というと、屋久島の原生林、白神山地。これはアメリカ式の自然の定義。人間とできるだけかかわりのない所を自然というのです。
 だけど本当に人間とかかわりがないのなら、そんなものあってもなくても(人間にとって)同じではないかと私は思っています。日本人はそうではありません。日本人本来の自然に対する感覚の根本にあるのは「自然との折り合い」です。
 自然のままではどうにもならない、つまり屋久島、白神山地では使いようがありませんから、どうするかというと、これに「手入れ」をします。
 これは女の人が毎日経験していること。
 鏡の前に、極端な場合1時間も座っています。何をしているかというと、完全に手入れしないで放っておくと、屋久島、白神山地になっちゃう。それで思い切ってやる人は天王洲にしようとする。設計図を用いて美容整形に行くわけですが、いろいろと問題もありまして、私の女房の場合は結局、毎日毎日手入れをする。まぁ30年,40年やっていれば何とか人前に出して見られるようになる。
 子供も放っておけば野生児です。でどうするかというと、毎日毎日やかましく言う。これは「手入れ」です。】
お化粧も教育も「手入れ」であると、養老さんは言う。
これが、本書のタイトル「手入れの思想」の意味です。
 確かに、子供は設計できるものではないから「自然」です。「自然」ですから親の思うようには決してならない。親としては、なんとか「やかましく言って折り合いをつける」だけ、これは「手入れ」です。】
子供を育ててみると、「教育も手入れ」の意味が良くわかります。

 養老さんは、「都市化」について、こう述べます。
【東京でマムシにかまれると、だいたい「誰があんなところにマムシを置いた」。ジャワで青ハブにかまれてもそれは当たり前です。かまれた方が運が悪い。自然の中に暮しているときに不幸な出来事が起こりますと「それは仕方ない」。都会の中で不幸な出来事が起こると「誰のせいだ」ということになります。】
 戦後の日本は、ひたすら都市化を推し進めてきた。都会では何事も、ヒトの所為にします。戦後の日本人の態度の変化でいちばん目立つのは、何事も人のせいにする人が出てきたことということです。
 【中国では7,8割が農民だということ、私たちはちょっと誤解していまして、2,3割の都市こそ中国であると、どこかで思い込むところがあります。そう思い込んだ典型が日本の陸軍でした。ですから戦争中に、都市を全部占領して、その間の道路を封鎖したら中国人はへたばると考えたのです。それを戦後に毛沢東が笑いました。当たり前です。7割の人はよそに住んでいる。(現在も中国論というのは中国都市論になってきているような気がします。)】
 教育について、さらにこう述べている。
 【日本は、儒教イデオロギーを封建的と称して、戦後徹底的につぶしました。ご存じのように戦後、教育勅語が消えました。教育勅語は、大変日本的な儒教思想でした。教育勅語の中身を消したのですが、その精神は綿々と今も生きている。あれを作った時の文部大臣は芳川顕正という人ですが、教育勅語にいれなかったことが二つあると言いました。それは宗教と哲学です。宗教と哲学をのぞいて造られた勅語とは何かというと「マニュアル」です。まさに人生のマニュアルです。それは自分で自分の生き方を考えるなということです。そのかわりこのとおりにやれということです。】
 面白い指摘です。哲学と宗教は「自分で自分の生き方を考える」ものであり、日本の教育は、「生き方のマニュアル」を教えるものだった。マニュアルに宗教と哲学は要らないというのです。
さらに、都市の中の人間について
 【荻生徂徠は江戸の人間をさして「旅宿人である」と言っています。旅宿人はどこにも根付くところがない。
 農民は違う。土地に張り付いている人たちです。自分のアイデンティテイが半分土地にある。だから名字がなくてもよかった。名字がないのは封建的なのではなくて、土地が実際にその人のアイデンティテイとして成り立っていた。】
【都市というのは、実は土地の代わりにイデオロギーを持たないと(人が)アイデンテテイが持てない】。
イスラム教もユダヤ教キリスト教も都会で生まれた宗教と、養老さんは言う。根付くところのない都会人はイデオロギーに根付きます。「会社人間」というのは、根付く地面がなくて会社に根付いた人たちだそうです。
 
 都市の中に住んで、自然環境の制約を離れて予定どおり(意識したとおり)に生きたいというのが、都会人です。しかし、人生は思う(意識する)ようにならないもの。
 【私たちが生まれて、としをとって、病を得て死ぬということには意識はいっさいかかわっていません。気がついたら生まれていて、気がついたら年をとっていて・・・・私も手帳に詳しく予定を書いていますが、私の告別式の予定はまだ入っていません。】
 【ひるがえって戦後の日本を考えますと、非常に面白い。戦後の日本というのは、イデオロギーなしに急速に都市化が進んだ最初の社会ではないかと私は思います。】
 戦後50年、イデオロギーなしの都市化をやってきたとなると、世界の常識をひっくり返した稀有のケースになると思います。】
 哲学と宗教がないとは、イデオロギーがないというのです。
イデオロギーがないと「こうやってはいけない、ああやってはいけない」ということが何もない。
 イデオロギーとは、生きていくための思想です。

最後に、ゴキブリをなぜ人は嫌うか。
都市には人間の作ったものしかない。地面も嫌って舗装で埋め尽くす。
何故、人はゴキブリを嫌うか。
【ゴキブリも人間が作ったものではありません。あれが出てくるとほとんどの人が錯乱します。どうして錯乱するのかよくわかりませんが、嫌いだということがある・・・実はチンパンジーもああいうものは嫌います。人間やチンパンジーなどのような高等霊長類の遺伝子の中に、ゴキブリなどを嫌うという性向があるのは確かですが、それにしてもちょっと嫌い方がはげしい。その理由を考えてみますと、あれも裸の地面と同じで、ヒトの意識が作らなかったものだから・・】
 つまり、人工の環境の中に、「自然」(人間の意のままにならない)の生き物が遠慮会釈ないイキモノが入り込んでくるのが不愉快、だからゴキブルを嫌うというのですが、チンパンジーもゴキブリを嫌うのですかねー。