沈黙のファイル

『沈黙のファイル』という本を本屋の棚で見つけました。共同通信社社会部の編で、副題が、「瀬島竜三」とは何だったか、とありましたので、つい手にとってみて買ってしまいました。96年の刊行ですが、99年に新潮文庫になりました。

 ご承知のように、瀬島竜三氏は、戦争中大本営の参謀、満州終戦を迎え、ソ連に抑留。ソ連捕虜のまま東京裁判に証人として出廷。昭和31年帰国。その後、伊藤忠に入社。栄進を続けて会長にまで昇進。中曽根首相の信任厚く行革の政治参謀として活躍、と波乱万丈の人生を送った方です。

 つまり、第二次世界大戦以後の日本の歩みの中枢に、彼はいつも存在していた。

 私の関心は、何故そういうことが可能であったか?

そして、本人は、軍国主義日本の軍人としての活動、戦後民主制下での民間企業人としての活動に、何の葛藤も感じなかったのだろうか?の二点です。

 そして、彼の歩みを知ることは、戦中から戦後にかけての日本の歩みの実態を理解することになろうと思ったのです。

 本の内容を、章のタイトル順で追ってみると、
戦後賠償のからくり

 サンフランシスコ講和会議は、賠償問題をめぐり米国とアジヤ諸国が鋭く対立した。
「米国の無賠償方針に、フィリピンをはじめとする東南諸国が激しく反対して、原則としては日本に賠償を支払わせることに持ち込んだ。だが日本に賠償すべてを負担する能力はとてもない。そこで米国や英国の意見を入れ、賠償を取りたい国は日本と個別交渉をすることに決まった。」
 この個別交渉による賠償問題の解決は、その後の日本経済に決定的なプラスとなった。・・交渉が長期化した。アジヤ諸国への賠償開始は大きく遅れた。
「実際に賠償が始まったのは日本が高度成長期に入りかけたころで、賠償は軽い負担で済んだ。しかもこの交渉で相手国は経済発展に必要な工業製品を求めてきた。海外進出したい日本の企業に願ってもないことだった。造船や自動車などの産業は賠償需要で復活のきっかけをつかんだし、建設業もアジヤ進出の足がかりをつかんだ」
(この賠償に伴う商取引に日本の商社が関与し、瀬島氏は彼の人脈を活用した。)

参謀本部作戦課
 統帥権の実態を述べているが、ここでは割愛します。

天皇の軍隊
 天皇の軍隊は満州で何をしたか。

スターリンの虜囚たち
 イワン・コワレンコ(元極東ソ連軍総司令官の通訳)の語るソ連抑留時の日本軍隊。

よみがえる参謀たち
 朝鮮事変と冷戦の激化が、米国に日本の軍事機能と生産機能を必要とさせ、それによって、彼(参謀)らにとって、戦後は戦中の連続となったと思われる。

 85年6月。河野(「堺市公害患者と家族の会」事務局長)は瀬島の自宅に電話した。大気汚染問題への政府の真剣な対応を頼むためだった。
「忙しいので、できれば手紙でいただけますか」瀬島の答えはそっけなかった。
「瀬島さんはこれからどういう仕事をなさるんですか」と河野が聞いた。
「国家のために奉公します」
「国家のためとはどういう意味ですか」
「・・・」瀬島は黙ったままだった。

明治学院大教授、加藤典洋が語る。
「・・結局この人は戦前は国家、戦後は一転、伊藤忠に忠誠を誓い、
戦後の賠償を商売の機会にした。」

「彼ら幕僚たちに共通するのは戦争責任の自覚がないことです。中曽根元首相のブレーンになり、天下国家を論じるまでになった瀬島氏は戦後日本の象徴的存在ですね」、

 文末には、記者が取材に当ってインタヴューした3人、崔英沢(元韓国中央情報部)、井本熊男(元大本営参謀)、イワン・コワレンコ(元ソ連極東軍参謀部政治局将校)との会見録が付されている。

 まさに、瀬島竜三氏を語ることは、昭和を語ることだ感じました。以上、「沈黙のファイル」の紹介ですが、小説家は、彼をどう語ったか?を知りたくなり、30年も前の作品ですが、今度は山崎豊子不毛地帯」を図書館で借りてきました。