司馬遼太郎が書いたこと・・・

司馬遼太郎が書いたこと、書けなかったこと』(小林達雄著、小学館文庫、10年9月)という本を書店で見つけ衝動買いしてきました。
 著者は1952年生まれの脚本家。「もう頬づえはつかない」、「ホワイト・ラブ」などの映画作品があるそうです。詠んでみてとても面白かった。司馬遼ファンにはお勧めです。
 第1部が、司馬遼太郎とその作品をめぐる裏話を満載。その中からひとつを紹介しましょう。
 司馬遼はなぜ「ノモンハン」を書かなかったか?
 「坂の上の雲」で 明治前期の日本を描いたように、彼は、50代の総決算として、昭和前期の日本を描くべく「ノモンハン」を小説にする準備をしていた。
坂の上の雲」が秋山兄弟や子規を主人公としたように、司馬遼太郎は、小説「ノモンハン」に主人公を用意していた。
モデルは、須見新一郎というノモンハン事件の時に陸軍の大佐(歩兵26連隊連隊長)だった人物である。須見は戦後、長野県上山田温泉の旅館の主人として余生を送った。
昭和43年頃から、司馬はノモンハン事件の関係者の取材を開始し、須見に会う。
この時の須見の印象について『この国のかたち』の中で述べている。
<まだ血が流れ続けている人間を見た思いがした。その話は、事実関係においては凄惨で述懐においては怨嗟に満ちていた。うらみはすべて、参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた。他者からみれば無限に近い権能を持ちつつ何の責任も取らされず、取りもしないというこの存在に対して、しばしば悪魔!とよんで絶句された。>
その後、昭和49年の文藝春秋正月号に、司馬と元大本営参謀瀬島龍三との対談が載った。激怒した須見は司馬に絶縁状を送った。
<「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった。」という旨のことが書かれていたという。机上で作戦をたてる参謀というものにたいする怨念が、老いたる須見大佐のうちになおはげしく燃えさかっていたということなのであろうか。>
この絶縁状は司馬に大きなショックを与えた。これで須見のような人物を登場させることはできなくなるからだった。須見の絶縁状が「小説・ノモンハン」の構想を難しくしていったのかもしれない。

第2部は、第1章が村上春樹が代表作『ねじまきクロニクル』で語る「ノモンハン」について。第2章で大河ドラマ『竜馬伝』と『坂の上の雲』につて。「坂の上の雲」第1部の脚本家としてクレジットされているのは、野沢尚、柴田岳志、佐藤幹夫の3人。野沢以外は局の演出家だ。
野沢は名古屋出身の脚本家。ミステリー作家でもある(“破線のマリス”で江戸川乱歩賞)。平成16年6月、突然自殺した。その後演出家二人が脚本陣に加わり、野沢脚本を元に3年の時間をかけて決定稿にした。
などといった裏話です。