数学による思考のレッスン

『数学による思考のレッスン』(栗田哲也著、ちくま新書2012年8月)を読みました。
著者の経歴がユニークである。【1961年生まれ、東大文学部中退、数学関連の予備校、塾、出版社に在役。93年より数学オリンピックを目指す学生のための駿台英才セミナーの講師を務める。】
 著者がこの本で書きたかったことについて、“あとがき“の中で、『こうした書物を書くとき、いつでも編集者と私の間に興味深い乖離が起きる。それは、私が「思考とは何か」(哲学?)を書きたがるのに対し、編集者は「どう考えるべきか」という自己啓発(実用?)の本を書いてもらいたがっていることによる。』と述べている。
 一方、読者である私が期待したことは、以下である。
『自然科学においては、理論の正しさは、実験によって確かめる。一つでも、理論に反する実験結果が出れば、理論は誤りである。
 一方、社会科学の理論の正しさは、何によって確認するか?愚考するに、「その理論で我々が経験する社会事象を矛盾なく説明できることは当然だが、説明できる理論が複数存在するときは、理論が成立するにはある種の仮定を前提するので、より少ない仮定で説明できる理論が正しい。」
 「思考」とは「何が正しいか」考えることなので、「思考とは何か」を追求する著者は、私の愚考をどう評価するだろう、とこの本を手にしました。

 数学は一般的には、「論理」で問題を解決すると考えられている。著者は、問題を解決するのは、「論理」の前に「想像力」がある。そして、「想像力」が見つけた解を第三者に説明するとき論理が必要になるという。
 「A→B」という論理の構造について、Bを説明するのに、Aという部分に遡っているのだが、実は実際上のほとんどすべての場合「A→B」の「A→」の部分が自明でないがゆえに、あなたは説明を迫られる。そして、Aにあたる部分はほとんどの場合、単一なものではない。「{(PかつQ)またはR}かつ(SまたはT)」のようなより基本的で既知の命題を組み合わせて、あなたはBを説明しなければならない。
 ところが【始めにBがあって、逆向きの←で、そこからAにあたる何か(実はP、Q、R,S、T)を探すという場合には、人は論理よりも想像力をより多く活用する。】
そのことに気付かないのは、おそらく、「考える」ことには、絶えず世界を分類・整理して、構造化しておこうとする能力が、(これまで主にとりあげてきた「想像力」「論理」のほかに)働いているのであろう。ひとたび体系化されると、それは学習の際に「導いてきた苦労の跡」すなわち「アイデア」の部分はほとんど省略されるからだ。

 著者は数学について、例を挙げてこう述べているのだが、この指摘は、社会科学についても全く正しいと思う。
 第三章(「現実への適用」)で、著者の思考の、社会科学への適用を考える。
 議論とは、相手の前提を批判的に検討する作業であるようだ。
 つまり、相手の主張がどのような根拠に基づいているか検討し、・・・だから、相手の主張の構造をよく見て、どのような前提に基づいているのかを明確に把握することが大事である。
【たとえば、経済について解釈の違いが起きたとする。どちらも議論の巧いこと、鋭いこと、神様のような人で、尊敬され恐れられている学者先生としよう。かたや、「デフレはケインズの新解釈で克服される」と論じ、かたや「デフレは公共政策では決して解決できるものではなく、金融のしくみに問題がある」と主張したとしよう。】
【簡単に言えば達人同士の議論は、「どちらが絶対的に正しいか」ではなくて、彼らの「世界」のどちらが、より深い説明の基層に到達し、「どちらが広く物事を説明する枠組みになっているか」という競技なのである。】
 「より深い説明の基層に到達し」とは、小生の言う、「より少ない仮設」と通底するのではないか。
 最後の第四章(時代が求める思考力)で、【ネット上には情報と思考の「野武士」が生まれつつある。私は沢山のサイトにお邪魔してみたが、相当な思考力があり、「野武士」として生きようとしている人々が増え、それに「フォロワー」とも言うべき集団がつきかけている。 私はこのような「野武士たち」にしか、この日本を変えていくことはできないと思う。】とまとめている。著者もまぎれもなく、この野武士の一人であろう。